「本当に人を好きになったこと、ないんじゃない?」

大学2年の時にさりげなく友人に言われた一言を、私は忘れられずにいる。そんなことはないでしょ。とその場では笑い飛ばしたが、帰路につく頃から、ずっとその言葉が頭を支配していた。

そんなことはないはず。だって私は、二次元も三次元も網羅した、推しに人生捧げているタイプのオタクだったし。その時は同じ軽音部のとある男の子が、あまりに好みなかわいい顔をしていて溺愛していたし。自他ともに認めるいわゆる「メンクイ」である。

それどころか私自身としては、高校の頃あたりから、どうやら自分は男女どちらにも恋愛感情を持つタイプなのかなと、なんとなくだが、自認していた。そんな私が、まさか人を好きになったことが無いなんて事があるのか。

しかし冷静に考えてみると、友人の言葉も全否定はできない。
私はこれまで、所謂恋人のような立ち位置の人が居たことはない。友人も多く、誰とでもすぐに仲良くなり、顔だって世俗的な、世間的な観点から見れば中の中くらいだろう。しかし、一人も、居ないのだ。
それは、恐らく私が、恋人がほしいという考えに駆られることが無かった為だった。

推しはいても、恋人はほしくない。自信が揺らぐほどの衝撃

恋人がほしいと、心から思ったことが無いということに、その時に気付いた。
幼少期から振り返っても、恋人になりたいと誰かに対して思ったことは一度もないことに、愕然とした。
所謂推し、に対して恋愛的感情を持つことは正直全くない。それまでに好きだと思っていた子にも、あの当時熱を上げていた部活の男の子にも、大別してしまえば推しという感情を抱いていた。なるほど、今考えてみれば彼等と付き合いたいと思ったことがない。実際その後、ありがたいことに当時溺愛してたその男の子とのご縁があったが、断ってしまった。
あんなに明け透けな好意を本人にも周りにも押し売りしていたというのに、今考えるととても最悪な女ではある。

どうやら、友人の言った通りだと認められたのは、数ヶ月たったころだっただろうか。当時の私にとって、それを認めることは、今までの自分に対する自信のようなものが揺らぐほどの衝撃だった。そして同時に、今後の自分に多大なる影響を与えてしまうのではないかと、底知れぬ恐ろしさを持つものだった。

それを認めてしまったら……認めたくない不都合な事実

その言葉を認めてしまうということは、つまりイコール、自分は誰も好きになることのできないジェンダーの人間だ、と認めることと同義に感じられた。
私の周りにはラッキーなことに、子供のころからあまりに多様な国籍の人々がいて、恐らく様々な価値観や、宗教、ジェンダーの人がいた。そのおかげか、私はどんな生き方をしている人も、尊重して生きてきたと思っていたし、現に今もその心は大事にしている。

しかし、いざ自分がそのようにマイノリティだと感じたとき、言いようもない不安に駆られたし、認められなかった。そのことは、当時の私に対して「どんなに綺麗事を言っていても、実際は自分も偏見にまみれている」という悲しさも突き立てた。

どんな人も、みんな同じと思って生きてきた自分が、まさかそんな考え方をするなんて、と失望してしまった。私の中で、所謂無性愛者や非性愛者は不幸であるという考えがあったことに、ショックを受けた。
性格的に、どうやら結婚は向いていないと、物心ついた頃から少々諦めていた節はある。それでも私はやはり、恋愛というものに夢を抱いていたし、一度は経験したいとも思っていたらしい。

あれから4年。さらに欲求が薄れていくなか、たどり着いた思い

今、私は大学6年で、今春からは延長をしすぎたモラトリアムを抜けてとうとう社会人になる。あれから4年間、色々なことを考えたし、心変わりもあった。
相変わらず恋人も好きな人もできないし、当時よりさらに恋人が欲しいという欲求は薄れてきている。

今の、24歳の私の考えは、そこまで焦る必要も心配する必要もないかな、である。
別に恋人がいなくても、結婚しなくても、幸せに生きていけるという思いは強くなった。逆に、恋人と過ごしたり、結婚したりということに、とても幸せと感じる人が居ることも、わかってきた。

そして何より、きっと私はどちらになっても、幸せである、と思えるようになった。

もし、自分が無性愛者や非性愛者であったとして、今それを認めることがまだできないのであれば、もう少し待ってみてもいい。逆に、そう自認したとしても、今後絶対に誰かを好きにならないなんて、決心しなくてもいい。

もし、ご縁があれば。

最近の私の心の中の思いはこれに尽きる。
ご縁があれば、ラッキー!
ないのなら、自由に暮らそう!
今はまだ、それくらいの心持ちで、軽い気持ちでいいのかな。そう思うことにしている。