今年で齢22になる私の人生は、順風満帆。自分に正直に生きていたらそれなりに愛され、困った時は誰かが力を貸してくれていた。そんな、子供っぽくて面倒くさがりだけど可愛げがある自分をそれなりに気に入っていた。
しかし私は、去年の秋に絶望を味わった。2年半付き合った彼氏に突然別れを告げられた。大学一年の時にアルバイト先で出会った二つ年上の彼。初めて会ったときからずっと好きで、脇目も振らず彼だけを見ていたし、彼との未来も考えていたし、彼もそう思っていると自惚れていたから、目眩がするほどショックだった。理由は「結婚する未来を全く想像できない」というものだった。
全てを理解していたはずの彼が・・・ 2年半が無価値に思えた
信じられなかったし、信じたくなかった。私の二年半、そして私という人間を否定されたような気持ちになった。自分のすべてを知っていて理解している人からの拒絶。自分にはともに時間を過ごす価値がないという烙印。苦しくて悲しくて、ご飯が喉を通らなくなった時もあった。
しかし、徐々に前を向くことができるようになり、「彼に愛される女性になりたい。家庭的で賢明で品のある大人な女性。彼が結婚したいと思う女性になる。」と考えるようになった。そこから、姿勢を正し、言葉遣いを丁寧に意識し、愚痴や弱音を吐かない、など、自分が思う「理想の女性」を常に演じて生活しはじめた。
ありのままの自分が愛されないこと。男性の思う「女性らしい人」にならなければ認められないこと。振られた当初は、彼への反骨精神も相まって、つらさや苦しさよりも、怒りや悔しさが強かった。「理想の女性」を演じることに、抵抗もあった。
これは自分ではないのではないか。こんなことをしても、自分が苦しむだけではないか。そんな自分の中のギャップも抱えながら生きていた。
「家庭的」を単純に憎んでいた 未熟さを越え自分磨きの最中
「家庭的」という言葉も私の憎しみの一部になっていた。家事や料理は女性の役割で、そんな雰囲気を感じない人は「女性」ではないという考え方はそれこそジェンダーに対する偏見である、などと屁理屈ばかり考えていた。
しかし、時間をおいて考えると、例えば将来同居するとなった時、同居人が片付けや家事ができないとか、全く自炊をせず、既製品を買って食事を済ますような人だったら、男女にかかわらず、人間として好きにはなれないと思う。
今なら、ジェンダー差別だと決めつけていた自分の方がよっぽどジェンダーに対して屈折した考えを持ち、人間として未熟だったと振り返ることができるようになった。
また、彼が別れ際にしっかり理由を言ってくれたことに感謝する気持ちも芽生えた。自分が改善することによってもう一度やり直せるかもしれない。無理でも、必死に自分を変えようとしたことは無駄にはならないから。
昔どこかで読んだ本の中の、忘れられない言葉がある。
『人間はみんなダイアモンド。原石は磨かなければ輝かない。つらく苦しいことが起こるのは、自分を研磨しているときだと思いなさい』
私は今、研磨している最中なのである。
2021年、私は「愛される女の子」から脱皮し、男女という壁を越えた「家庭的で賢明で品のある人」になることをここに誓います。