「こんにちは。咲良です。英語は全くできませんがよろしくお願いします!」
なんてみじめなんだろう。今まで英語を頑張ってきたのにこんな自己紹介をするなんて。大学入学時の学部の自己紹介でそう思わざるを得なかった。
田舎の公立高校からはれて都会の私立大学に進学した私は、自分が進学した学部の半数が帰国子女であることに驚きを隠せなかった。国際系の学部であり、帰国子女枠のAO推薦が多いこと、また系列校に実質の帰国子女受け入れ校があり、中学、高校とエスカレーター式で進学する生徒が多いのが理由であった。海外になんて行ったこともない、高校も国際科などではなく普通科、ましてやこれまでの人生で帰国子女という人種に会ったこともなかった私にとって、キラキラした外国での経験を話す彼らは、なんとなく異質なもの、例えていうなら宇宙人のように思えた。
私だって頑張ったのに。帰国子女ってだけで人生イージーモードなの?
授業が始まり、帰国子女と英語の授業を受けるようになった私は、段々と自分の英語力、ひいては人生までを卑下するようになる。
想像はしていたが、私と彼らには圧倒的な英語力の差があったのだ。受験英語しか勉強していなかった私はすらすらと話せるわけでもなく、ひたすらどもり続けるのに対し、彼らは流暢できれいな発音で外国人の先生とコミュニケーションを取っていく。どうして?私だって今まで英語をがんばってきて、高校では常に成績上位だったのに。必死になって単語や暗記例文を覚え、和訳にいそしんでいた私が、親の都合で小さい頃に海外に行って楽に簡単に英語を習得した彼らにこんなみじめな思いをさせられないといけないの?そもそも私は血の吐く努力をして大学受験に受かったのに、彼らはそのめちゃくちゃしんどい大学受験を経験せずにAO入試や内部進学で大学に入っている。なんで?世の中不公平過ぎない?ネイティブな英語を話せるというだけで人生そんなイージーモードになるの?それじゃあ今までの私の人生何だったの―――
ただ受験科目の5教科7科目の中で1番英語が好きで、なんとなく留学に行ってみたいという理由だけで入学した私は、帰国子女の英語力や華々しい海外での経験を、ただひたすら妬ましく思うようになった。授業の中でも何となく帰国子女は避け、自身のことを「純ジャパ」(=純ジャパニーズの略。ハーフやクォーターではなく海外経験のない日本人を指す)と呼んで帰国子女と区別し、「純ジャパ」の友達と帰国子女の悪口を言いながら固まるようになっていった。
彼らはいじめとは無縁で、ちやほやされて生きてきたと思っていたのに
大学生活にも慣れたころ、大学OBの社会人の話を聞く授業があり、足を運んだ。イギリスの帰国子女だったという彼女は生徒の前で生まれてからの自分の経歴を話し始めた。
「親の仕事の都合でイギリスの学校に転校しましたが、転校先ではうまく英語を話すことが出来ず、現地の子からいじめられました。親の駐在が終わって日本の中学校に通い始めましたが、私のことが宇宙人のように思えたみたいで、そこでもいじめられました」
宇宙人――大学入学時に私が帰国子女に対して抱いていたイメージだった。
帰国子女なら人生イージーモードじゃなかったの?小さい頃に海外で生活するんだから、楽に英語を習得できるんじゃないの?きれいな英語が話せて海外のこともいっぱい知ってて、皆からちやほやされて常にスクールカースト上位で、いじめとは無縁なんじゃないの?頭の中で?マークがいっぱい浮かんだ。
彼らの苦労も努力も知らずに、レッテルを貼って嫌っていただけだった
英語の授業を取れば必ず帰国子女がいて、グループワークなどで少しずつ帰国子女と関わる機会が多くなっていくにつれて、彼らは自身の苦い経験や思いを話し始めた。「現地や日本に帰ってきてからいじめられた」「皆が外で遊んでいるときに英語と日本語両方の勉強をしなくてはいけなく、辛かった」「現地で英語を習得するのに3年かかった」「アイデンティティに悩んだ」「英語の授業で発言すると、発音がネイティブなために疎まれることがある」「帰国子女と呼ばれるのが嫌だ」・・・
ああそうだったのかと、自分は猛省した。彼らにも彼らなりの苦労があったのだと。小さい頃に親の都合で海外に連れられ、言葉も文化も違う中で必死に生活していたのだ。英語力や海外での経験はその努力の賜物であり、決して楽に簡単に英語を習得していたわけでもなければ、人生イージーモードではない。むしろ海外生活でも苦労し、日本に帰ってきてからは「帰国子女」というレッテルを貼られたまま生きなければならない。行っていた国も時期も期間も、さらには顔や性格だって人それぞれなのに、「帰国子女」として一括されてしまうのだ。
皆同じ人間で、一人一人違う。違いを認め合うことの大切さを知った
思えば我々は自分と違う人に対してレッテルを貼り、「こうなんでしょ」と思い込みをしてしまうことが多くある。「ハーフの子は可愛くて人生得している」「中国人はマナーが悪くうるさい」「東大生はみんな頭がよく仕事ができる」「女性は細かい仕事が得意」。アルバイトで韓国人の同僚がミスをした際、名札を見て「韓国人はやっぱり駄目だな」とお客さんに言われているのを見たこともある。
それ、本当に正しいのだろうか。自分と違う人々に対してレッテルを貼り、貼られた側を苦しめているのではないだろうか。人生イージーモードだと思っているその子は、もしかしたら裏でとんでもない苦労や努力をしているかもしれない。私たちに必要なことは、自分と違う経験をした人々を認め合い、その経験の中にある「苦しみ」に寄り添い合って生きていくことではないだろうか。
あの頃大嫌いで、「宇宙人」だと思っていた帰国子女達は、実は同じ「人間」であり、これからどんどん多様化する日本社会において、私に大切なことを教えてくれた。その後私はコミュニケーション的な英語を猛勉強し、彼らのおかげで自分のセルフイメージを「純ジャパ」から「英語を話せて、違いを認め合える日本人」に変えることができた。彼らとは今でも飲みに行く仲であり、私の人生にとってかけがえのない友達になっている。