年末年始を実家で過ごさなかったのは、25年生きて初めてのことだった。それも自らの選択ではなく、家族や周りの環境が『帰らないで欲しい』と申し立てるのだから、これが異常だということは身に染みて実感した。
年末には同じ境遇の同士で電話をして、「来年は遊ぼうね」なんて会話を夜通ししたわけだが、私はほんの少し不安になった。次に私たちが、あの時と同じように気軽に会えるのは、一体いつになるのだろうか。
ソーシャルディスタンスという言葉が生まれ、人と人の間に距離が必要だった昨年。私が深く感じたのは『今築いている人間関係が、どれだけ大切か』ということである。
生まれ育った地元を離れ、線のように細い繋がりを持ち続けてきた私だ。気軽に会いに行けない距離で、それでもコミュニケーションを取ってくれる友人は私にとっては紛れもなく『かけがえのない』友人だった。
そんな日常の素晴らしさを改めて気付かせてくれたのは、皮肉にも私たちの生活を邪魔するコロナウイルスそのものだったのだ。
寂しくても一緒に鍋パーティーをして「美味しいね」と言う友人もいない
現在の私たちは最早、直接会わずともやり取りする手段が無数にある。私はすっかりその便利さに甘えていた。
学生時代とは違い、友達作りに関して義務感も芽生えない社会の中で、無論私は自ら新しい友人を作る意欲もなく、旧友と連絡を取り合う日々を送っていた。
時々1人で生きづらい店があったりすると己の生活環境を悔やんだりもしたが、地元に友達がいるという安心感だけで、特に不満もなく数年と過ごしていた。
その価値観が、地元に帰れない年末年始のせいで白から黒へ、まるでオセロのようにひっくり返ってしまったのである。
今の私には寂しくても一緒に鍋パーティーをしてくれる友人もいなければ、困った時すぐに駆けつけてくれる相手もいない。
どれだけ離れていても雑談をするツールがあっても、同じテーブルを囲み料理を「美味しいね」と言い合える友人は、ここにいないのだ。
友達が欲しいと思った。だけど困ったことに、社会という莫大なコミュニティに投げ出された私には、友達の作り方がわからなかった。どうして人間はこんなにも沢山いるのに、仲良くなれる人はほんの一握りしかいないのだろう。
一度仲良くなってしまった相手とは気軽に連絡が取れる代わりに、初めて会った人に気軽に話しかけるという文化は随分と廃れつつある。孤立が身近に感じるのも、当たり前のことだ。
バーでもネットでも知り合い方は何だっていい。きちんと会話がしたい
友人の中には「たまたまバーで話した人と知り合いになった」と教えてくれた強者もいたが、前述したようにそれは例外で、こういう時私のような人間を救ってくれるのがネットやアプリである。今は友人作りの為のアプリまでも存在すると小耳に挟み、早速私はスマホを手に持った。
そうしてそのアプリをダウンロードしてようやく気が付いたのだ。確かに世の中、面倒を割愛する為の手段は幾らでもある。しかし対面だろうがネットだろうが初対面であることには変わりなく、どのような形であれ積極性が無ければ意味を成さないのだ。
幼少期より散々学んできた友達作りの掟をようやく思い出した私は、そっとアプリを閉じた。バーでもネットでも、知り合い方はなんだっていい。ただ、きちんと会話がしたい。
あの頃だって、目と目を見てお互いの話をしなければ、本当の友達にはなれなかったではないか。
今までは現状に満足していたが、今年は一歩前を行く。新しい出会いを得る為に、積極性を手に入れるのだ。
コミュニケーションが当たり前だったあの頃に戻るまで、今は楽しみに待つばかりである。