2021年、私の宣言は「書く」。シンプルだ。
小学校の頃より、詩や作文が大好きだった。「書く」ことができないときも、いつも言葉が頭をかけめぐっていた。でも、この「書く」ということは、何の生活の役に立つのだろうと思い、勉強や部活に力を入れるようになった。それなのに、「書くことが好きなこと」は、やめられなかった。中学でもやめられず、高校でもやめられず、大学でもやめられず、社会人になった。

好きなこと、は、無駄なこと

地元の中小企業に就職して、それなりに頑張って、良い人と出会って、結婚もした。それでも、まだやめられない。「書く」ことが好きだ。好きなのに、書いていない。それが最近とてももどかしかった。
大学以来めっきり、「書く」ことをしていなかった。それは半分諦めで、半分意地だった。自分に対しては「時間がないから」と言い訳をし、本当のところは「書いて一体、何になるんだ」と思っていた。

子供の頃は、今にして思えば「無駄」だと思えるものにいくらでも時間をかけられた。時間を忘れる程そのことに集中し、妨げられるとふてくされた。それで許されていた。少しずつ教養が身につき、理性をもって行動するようになって、この好きなものにひたむきに向かう情熱を冷ます方法を覚えた。安定と生活が自分の中心になり、別の楽しみで満足感も得られた。「無駄なこと」に時間をかけることが怖くなったのだ。それが大人になることなのかもしれないが、どうにも心にひっかかりがあった。

理由はいらない。だって好きなものは好きだから

「書く」ことが好きだということを、あまり周りに言えなかった。少し恥ずかしい。変わった趣味だと自覚している。夫に言うのも憚られた。だから、冗談めかして、精一杯の虚勢を張りながら、「変わってると思われるかもしれないけど、詩とか小説とか、好きなんだよね…書くのが。」と、漸く言ってみた。出会って言えるまでには1年以上かかった。自分が思ったより、夫は好意的に受け取ってくれた。

そして言った。「書いたらいいじゃん」と。何になるわけでもないのに?と私は思ったが、夫の口調があまりに軽かったせいで、むしろ重くとらえていたのは自分だったのだと気づいた。そう、やればいいのだ、好きならば。好きなことをすることに意味を見出している人なんて、きっといない。やる理由は好きだからで十分だったのだ。

得られるものは満足感だけかも。だけど今度こそ「好き」から逃げない

だから私は決めた。今年は「書く」と。書いて、書いて、書きまくる。その先に何が得られるのかは考えない。とにかく書く。時間の無駄かもしれない。何の意味もないかもしれない。私は変わらず今の仕事を続け、夫と今の生活を続けるつもりだから、世間的に見ても何も変化はない。でも自分の中では、書き始めるということは、これまでの自分の人生の中の、最も大きな一つの軸として存在するものに真っ向から向かい合うことなのだ。

簡単に思えて簡単ではない。他人が思うほど、「書く」ことは容易ではない。自分と、書きたいものの間から紡ぎだされる言葉の羅列が満足のいく形になるまでは逡巡と反芻と咀嚼を幾重にも乗り越えなければいけない。それでも書きたいという気持ちと、思ったものが書けないという葛藤の中でようやくそれらしいものが見える。見えたものを手繰り寄せ、無我夢中で書いて、書いて、そうして書き上げたとき、とてつもない満足感を得られる。

今年の間にいくつの満足感を得られるかしれない。十かもしれないし、一かもしれない。零かもしれない。それでも私は「書く」。もう言い訳はしない。そう宣言する。