2021年 私の宣言 「ムダ」を取り戻す。

「わたしの好きなことって何だったっけ」と、10代の思春期か60代の定年すぎの人のような悩みに陥ったのは、昨年の自粛期間だった。
20代後半。
社会人になってからずっと「いま仕事を頑張らなくて、いつ頑張るの?」という焦りもあって、土日も頻繁に「情報収集」と称して出かけていた。
美術館、博物館。できたばかりの話題のカフェ。SNSで人気の雑貨店。
商品の企画職をしているから、今のはやりとか、ニーズとか、どんな人がどんな界隈に多いのかとか、データではなくて目で見て感じたかったのだ。そうやって出かけることは仕事の情報収集のつもりでいたけれど、刺激的な体験をする間だけでも仕事のことを忘れたい、という気持ちだったのかもしれない。

マスクをつくるために開けた裁縫箱。子どものときから使っていたもの

春先の自粛中はマスクが品薄で、布マスクを作ることにした。
やることがない週末。ぼうっと過ごすには1日が長くて、かけた時間分だけカタチになる手芸はなんとなく「ムダじゃない」ように感じた。
ボタン付けくらいはしていたけれど、裁縫をするのは高校の授業ぶりだ。手に入らなかったゴム紐の代わりにリボンを使ったり、不織布のマスクから切り取ったノーズワイヤーを使ったり。多少のオリジナリティをつけくわえる。ミシンは苦手だし、クローゼットの奥から出すのが面倒で手縫いでもくもくと作る。
出来上がったマスクはちょっといびつで、近所の散歩に行く以上には使えなそうだったけれど、「休日の時間をムダにしてしまった」という罪悪感からは逃れられた。

裁縫箱は小学校ときから同じものを使っている。ペンギンのキャラクターのイラストがついている、水色のもの。
当時、わたしは週末のたびにぬいぐるみやら、マスコットやら。人形の洋服や小物を作るのが大好きだった。少ないお小遣いを握りしめて、手芸屋さんに行くのがなによりの楽しみだった。コピー機に払うお金がもったいなくて、図書館で借りた本の型紙を裏紙にトレースして、新しい型紙を試すのが何よりもワクワクすることだった。
今思えば、子供ながらにそれなりに器用に作っていたと思う。でもそれをぜんぶ「ムダな趣味」だとやめてしまったのは、小学校高学年の頃だっただろうか。

受験をきっかけに「ムダ」なことはしないようになっていった

きっかけのすべては中学受験だったと思う。
そんなに熱心に練習はしていなかったけれど、好きではあったピアノのレッスンをやめたころから、「勉学に関係ないものはすべてムダ」と考えるようになっていた。
その甲斐あって希望の中学に入学したが、進学校で毎日とうていこなせないような大量の宿題が出る。成績さえよくて机に向かっていれば親も先生も満足するから、ますます「勉強以外はムダ」という思いが強くなっていった。

「ムダ」に時間を割かなくなったのは、「上達しないものはやっても仕方ない、趣味とも呼ばない」という考えが両親にあったからかもしれない。なにごともやり始めてすぐに完ぺきなものはできないものだけれど、下手なものは馬鹿にされて笑われたし、迷惑がられもした。
「そんなことしてもどうせうまくならないから、もっと役立つことをしなさい」という教育方針だったのだろう。
幸いにして勉強は嫌いではなかったし、勉強すれば成績も伸びたから、ますます勉強以外のことに時間をかけることへ罪悪感を覚えるようになってしまった。

就職してからも、家でじっとすごしていることが「ムダ」という考えがぬけなくて、それで外出ばかりしていた。美術館や映画に行ってつまらなかったり不快に思ったりするときはあっても、なんだか充実していたし、人から馬鹿にされることもなかったし。

「ムダ」がこれから私をワクワクさせてくれるかもしれない

家で過ごす時間が長くなって戸惑っていたとき、「ムダ」と思っていた縫い物にずいぶん救われた。
そうだ、むかし「どうせできないなら、やってもムダ」とあきらめていた棒あみもやってみようか。ほかにも「ムダ」と思ってやらなくなってしまったことなかったかしら。
もっと「ムダ」を愛してみよう。

家にいる時間を無駄にしたくない、という気持ちはもちろんある。充実していないと失敗したような気になってしまうから、根本的にはなにも変わってないのかもしれないけれど。
子どもの頃のガラクタばかり詰まっている宝箱を開けると、「くだらないものばかりだなあ!」と思いながら、いまでもワクワクが抑えられないような、そんな気持ちで2021年を迎えている。