入社6年目、私は都内で働く会社員だ。昨年結婚した夫はいわゆる転勤族で、東京から約2時間離れた地方都市にて勤務している。そして私たちは一緒に暮らしている。もうちょっと状況を説明すると、私は片道2時間の長距離通勤をしているのだ。
これを誰かに話すと、返ってくるのは「うわぁ、本当に?めちゃくちゃ大変だね」「自分ならできないなぁ。移動時間なんてこの世で1番無駄…」そんな哀れみのこもった言葉ばかりだ。

学生時代から付き合っていた人に、ありがたくも早めのプロポーズをしてもらい結婚することになった。その半年後に彼は転勤になったが、当時お互いが住んでいるところからは相当距離があった。
大学入学と共に上京し、そのまま東京で就職した。そこそこの年齢で結婚して、妊娠して産休育休をとって働き続ける…絶対の目標にしているわけではないが、先輩たちに倣い自分もその道を辿るのだろうとなんとなく思っていた。それが白紙になってしまうなんて。大好きな人と結婚できるのは嬉しいのに、先々のことを考えると不安が怒りに変わる。私のキャリア、ここで終わり?やっと仕事が面白く、ちょっとずつ任されるようになってきたのに。くやしくて仕方がなかった。2、3年という彼の短い転勤予定も逆にネックだ。「転勤先でもまたすぐ仕事をやめることになるのかな」「でもちょくちょく休日出勤がある彼と、はたして別居婚が成り立つのだろうか」色々な考えが巡り、どれも諦めきれない私に「とりあえずやってみてダメなら考えよう」と妥協案を出した彼。そして私が東京と地方を行き来する生活をすることになった。

毎日往復4時間 心身も仕事も犠牲にした、予想以上にギリギリの生活

実際やってみると、朝は7時に家を出て9時半の始業ギリギリ。終業後すぐ帰ってきても夜は21時近くになる。月におよそ80時間、年間では960時間が移動に消えるのは、覚悟したつもりでもやっぱりきつかった。心も身体も表面張力で保っているようなギリギリな毎日。これまで少し残業をすれば追いついていたことが、今の私にはできない。1分2分の電車の時間を気にして、気持ちは常に焦っている。それなのに夫は出勤時間も変わらず毎日2時間前後は残業して、今まで通りの社会人生活を送っている。ずるい。私は何も変わってないのに、時間がなくてできないことがこんなにあるのに。口には出さなかったけれどもそんな黒い感情が心の奥に溜まっていく。

何も変わらない生活を送る夫が口にした「来なければよかったのに」

そんな生活が始まって3ヶ月。言葉の端々に疲れとイライラが見え隠れする私に、ついに彼から出てしまった言葉。

「じゃあ来なければよかったのに。」
その一言を聞いて、身体中の力が抜けた。なんでそんなことを言うのだろう。私の我慢って、いろんなことの諦めってなんだったんだろうか。いっぱいいっぱいだった気持ちが弾けてパニックになり、気づけば号泣していた。
翌日、落ち着いて自分の気持ちを伝えた。あんな言葉を言われたら、もうどんな夫婦を、家庭をつくっていったらいいかわからない。結婚するからには一緒にいたいと、そっちも思ってくれていると考えていたのは勘違いだったのかな。少しずつ話す私に、彼は苦しそうな表情を見せるだけ。はっきりとした返事はなかった。

ノートに綴られた誠実な言葉に、はたと互いの愛を再確認した朝

そのまま疲れて眠りに落ちた私に、翌朝置き手紙があった。便箋代わりのちぎったノートには喧嘩になっても黙っていることが多かった彼の、悩みながらも誠実な言葉が並んでいた。
私にも私なりの人生設計があっただろうに、自分との結婚を選んでくれたことへの感謝。私の仕事への情熱をわかっていたから辞めてとは言えなくて、本当はもっとサポートしたかったこと。一緒に幸せになりたい気持ちはずっと変わらないこと。そうだった。こういう人だから、私も隣にいたいと思ったんだ。

その後は別に大きく変わったことはなかったけれど、お互いの気持ちがわかったことは日々の生活に少しずつ変化をもたらした。
長い通勤時間もリズムを掴めばある意味自分時間になる。勉強をしたり本を読んだり、やっぱり疲れて寝てしまうことも多いけれど、こうして文章を書くこともできる。休日には以前だったら泊まりがけで行ったような観光地にも気軽にドライブへ行けるし、家の周りは自然が豊かで星空も綺麗。今いる環境も捉え方を変えれば、こんなにも気持ちが楽になるとは知らなかった。

「ふつう」をつっぱねる その物差しでは私たちの幸せははかれない

「ふつう」や「当たり前」という言葉で表現される、社会の常識や慣例。「ふつうは~」と前置きすれば誰もそれ以上はつっこめない安全圏の出来上がり。でもその「ふつう」を物差しにしても、自分たちが幸せになれる選択ができるとは限らない。例えば、大好きな人と毎晩同じベッドで眠ること。家族それぞれがやりがいをもって好きな仕事をすること。これらは本人たちでないとわからない幸せだし、お金だけを払っても手に入らない。そのための努力や決断は誰にも否定できない。
日常の中に「ふつう」は潜んでいて、そこから外れたときには指をさされ、無遠慮な言葉を浴びせられる。でも本当に大切にしたいものは、素直に自分や一緒にいる人と向き合って整理するのがいいのかもしれない。そうして決意したことは信念となって、自分を守る盾になる。これからも私たちは「ふつう」を無視して、つっぱねて、乗り越えて。自分たちの思う幸せを掴んでいく。