コロナ禍の10ヶ月、私が運命の猫との出会いを果たしている間に、なんと皆は運命の人と結婚していた。

友人との合唱サークル。コロナで会えないうちに8人中6人が結婚

もうこのメンバーで歌い続けてやがて6年になる。アラサーになっても毎週のように大学や高校の友達と顔を合わせ、しかも学校界隈で部活を続けているなんて、根っからの転勤族として育った高校生の私に言っても絶対信じなかっただろう。しかし、いざ親都合の引越しから解放されたら大人の私を環境から引っこ抜く力は驚くほど少なく、意外としっかり根を張った人生を送っている。そして、この社会人合唱サークルはいつの間にか、細く長く、私の人生で一番長く続いている友人コミュニティとなっていた。

コロナ禍で半年ほどはできなかった活動は無事夏に再開していたが、私は再開が遅れた。数ヶ月後、約10ヶ月ぶりにみんなに会いに練習に参加したら、同世代の女性8人は当たり前のように全員独身だったのに、いきなり6人がミセスに...完全に浦島太郎気分だった。

コロナ禍で世界と同じくらい、みんなも変わっていたのだった。みんなと私、人生に求めているものの違いが急に浮き彫りになった気がして、大袈裟に驚いて戯けるのが精一杯だった。

消えていく友人たちと否応なしに変容するコミュニティ。これを私は同時期にもう一つ体験していた。3年間住んだシェアハウスで。

周りからの影響で増えた趣味。人生の扉を開ける可能性を拓き続けたい

シェアハウスは楽しい。たまたまキッチンに居合わせた住人と他愛もない話をしながらダラダラと料理をしたり、ご飯を食べながら語っていたら深い話になり夜が更けたり、気の合う人々と旅行に行って馬鹿騒ぎしたり...独身で家で過ごす何気ない毎日に人がいる。これは実は特別なことだったのだと、引越して一人暮らしを始めた今、噛み締めている。

住民仲間の影響でこの3年、自分の引き出しがいかに増えていたか、そしてそれがいかにたくさんの友人たちに支えられていたかを、彼らがいなくなって思い知った。この頃よく多趣味だと言われるが、バイク、ビーガン料理、香水、ボードゲーム、多肉植物、西洋占星術などなど...趣味だけでも大半がここ3年で私の人生に加わった新しい要素なのだ。

私は人生の中に開けたこの新しい扉たち、その可能性を、これからも拓き続けていたい。そして願わくは、この扉の一つ一つを誰かとシェアし、わかってもらいたい。

その無数にある扉の鍵を持つのは、必ずしも運命人の1人でなくてよいと思うのは、傲慢なのだろうか。一軒家でなく、ホテルのようでありたいと思うのは、私だけか。

合唱の友人たちはきっと最愛の人と結婚していったのだと思う。自分の全てを相手にわかってもらいたい、そして相手の全てを分かりたいと思うのが「恋」、そしてそれを未来も願うのが「結婚」だとしたら、なんと不条理なことだろう。1人の他人が一手に受け止めるには、1人の人間の多彩性と軌跡は、あまりにも大きすぎるのに。

広がっていく自分と重なる人々と、それぞれ多彩な今を開拓したい

だから私は結婚ではなく友情を選ぶ。安定ではなく変化を選ぶ。相手の中に自分を収めるのではなく、広がっていく自分と少しずつ重なる人々と、それぞれに多彩な今を生きる。対岸の相手に相違の溝を埋めるよう強いるのではなく、こちら側にいる人々と開拓を進めたい。

別れの人生になるだろう。一生友達であることは、一生1人と添い遂げるより難しいかもしれないから。それでも今は、ジャングルのように変化していく自分にブレーキをかけたくない。結局相手ではなく、自分を選んでいるのかもしれない。

いつか自分の歩みを止めてでも見続けていたい、この世の神秘に出会えた時、はじめてこの強固な自分軸が粉々に吹っ飛び、本当の変化が起こるのだと思う。自分を道を築き続けたいと同時に、30年かけて積み上がったこのガラスの塔を粉々に砕け散らすような、詩的な存在と劇的な瞬間を夢見ずにはいられない。

そんな月並みな矛盾を胸に、2021年も独身者はせっせと脱皮を続ける。