私は、お天気とともに生きている。
電車通学を始めた中学生の頃からもう10年以上、自宅から歩いて20分程の最寄り駅まで自転車で通っている。私の人生がお天気にこんなにも左右されるのは、そのせいかもしれない。
よく晴れて曇りのない青空に、朝のぴりっと冷たい空気の中を、自転車で最寄り駅まで駆け抜ける時、私は無敵で、何も怖くない。世界の全てが私を愛してくれるような、そんな気持ちになる。
反対に、ちょっとでも雨が降っていたら、駅までは歩いていかなければいけない。朝の忙しい時間で頑張ってセットした髪型もメイクも湿気と汗で崩れてしまうし、その後満員電車を経て目的地までにはだいぶ消耗してしまう。さらに荷物が多い日だったら最悪だ。
「雨の日×満員電車×重い荷物=気が滅入る」
これは、きっと多くの人が共感してくれると信じている。この公式は、どんな数学の定理より普遍的だ。
いいことも悪いことも全部お天気のせいだと思えば、私の世界は楽になる
中学生くらいの頃は、お天気が悪いと、「今日は天気も悪いし、いいことないし、最悪!」と思っていた。でも、人間は賢いもので、長く生きていると自分が生きやすい方法を探し始める生き物なのかもしれない。
大人になった私は、「空が泣いているから、私も泣いているんだなあ」なんてメルヘンな言い訳で憂鬱な日も乗り切れる。こうしてちょっとお天気のせいにするだけで、落ち込んでいた心も幾分か軽くなる。私のちょっとした秘密の魔法だ。
いいことが一つもない日だって、ぜーんぶお天気のせいだし、お天気はコントロールできないんだから仕方ない、晴れたらきっと気分も良くなるさ、と捉えられるようになってから、私の世界はずいぶんと楽になった。何だったら、お天気に左右される私ってなんて単純で可愛いのかしら、とそんな自分を愛せるようにもなってしまった。
もしかすると「お天気とともに生きる」ことは、ものすごく幸せなことなのかもしれない。
頭では複雑に思考を張り巡らせているのに、人間の心は、結局結構単純明快で、ふふっと微笑ましくなる。
小さなことだけれど、そんなことを嬉しく思うし、どんなに悩んでも、自分は大きな自然の一部であるという感覚は私を救ってくれるような気がする。
友達も出来ず授業で足を引っ張る、悲しくて悔しい留学生活
そんな感覚に気がついたのは、留学中だった。
大学時代、1年間だけアメリカ西海岸、カリフォルニア州の海が近い大学に通っていた。
ありきたりだが、留学して間もない頃は、想像するキラキラした夢の留学生活とはだいぶかけ離れていた。
大好きな友達も家族もいなければ、言葉は思うように出てこないから新しい友達もできない。授業では思いっきり足を引っ張っているし、私なんていなくても構わない。むしろいないほうが授業はスムーズに進む。
ここでは、私が今まで頑張ってきたことを誰も知らない。今まで積み上げてきた私の基盤だった自信が一瞬にして崩れ去って、0になったような感覚だった。
悲しくて悔しくて落ち込む日々が続いたが、そんな私を「自分自身の努力」とか「成長の実感」より前に現れて救ってくれたのは思いがけず、カリフォルニアの美しい空だったのだ。
自分の存在の小ささをすんなり受け入れさせてくれたカリフォルニアの空
留学して1ヶ月くらい経ったある日、学校の近くにある海から綺麗な夕日が見えると聞いて、ふらっと見に行ってみることにした。(学校から徒歩で海まで行けてしまうのは、カリフォルニアの特権だった)
授業の終わりに、15分ほど歩くと海の見える崖にたどり着く。東京ではあり得ないくらい、空が広い。夕暮れ時まで待つと、青かった空は嘘のように色を変え、赤く染まっていく。飲み込まれそうなくらい大きな海に沈む真っ赤な夕焼けは、ただただ美しかった。
と同時に、壮大な自然の前で人間はこんなに小さくて、自分がちっぽけな存在であることなんて元々何の問題もなかったのか、と自分の存在の小ささをすんなりと受け入れられた。
すると、悩んでいたことなんて一瞬でどこかへ吹っ飛んで、ただ単純に「ここに来られてよかった」と感じることができた。
「美しい景色で、心洗われる」なんて、何ともありふれた話だが、身を持って体感してしまったのである。
そこからは、勿論紆余曲折あったが、楽しく充実した留学生活を送ることができた。それはそれは、カリフォルニアの爽やかな青空のように。
これからも、私は、空とともに人生を生きていくのだと思う。
空と一緒に笑い、一緒に泣く。たったそれだけで、ずっと人生が豊かになるような、そんな気がする。