考え方が周りと合わないことが多い。
昭和臭いと言われたこともあった。
臭いとは失礼な。しかしまぁ否定はできない。

キラキラした生活に興味すらない。しかし満ち足りている

ネットは使うがテレビにもネットの動画配信にもそこまで興味はない。
あの人が出てるなら見ようかなくらいの人はいても、好きな芸能人はいたことがない。
ファッションも流行りにはまず乗らない。質にはこだわるがブランドにはこだわらない。
大体のものは修理していつまでも使う。
外食の頻度は少なく、遊ぶなら公園、公共施設。

キラキラした生活も仕事で生き生きしている人も、羨むどころか今ではもう興味すらない。
だから稼ぎも多くはないし、物は買うけどお金の消費は比較的少ない。日本経済からしたら困った人間なのだろう。しかしそれで満ち足りてしまっている。
周りと価値観が合わない。

なんでこんなにずれてしまうんだろう。私がおかしいように見えてしまうんだろう。
それでも一度一つのことに打ち込む生活をして打ちのめされて体調を崩し、穏やかで質素な生活の居心地の良さを再確認してしまった。

どん底に落ちたところでプロポーズされ承諾するもコロナなどの影響でなかなか話は進まない。むこうの家族と家の両親が心から喜んで応援してくれていることがせめてもの救いだ。

一番大事にしていたものを無くし、また新たに大切なものを得て再スタートしたのだ。
穏やかで小さな幸せにあふれた生活の他に欲しいものなどない。

楽しくてたまらなかったあの生活に、今はもう戻りたくもない

昔の私は周りに羨まれるような立場にいて、慕ってくれる人も何人かいた。嫉妬されることも多々あったが、日々充実していたから気になることもなかった。
それが、いわゆるスタミナ切れでどうにも動かなくなりどん底に落ちたところでこの展開だった。

もう高望みはしない。と言うか望むこともない。
こんなおばあちゃんの暮らしの方が楽しい。

その後もチャンスはいくつかあったが全部断った。
今の幸せを壊したくはないし、楽しくてたまらなかったあの生活に、今はもう戻りたくもない。
って、最近心から思えるようになった。

インスタに上がるような暮らしも、バリバリ働く毎日も、一昔前の私なら羨ましいと思っただろう。
定職についていない自分を恥じることもあった。今ではそんな時のことも遠くに感じる。

祖父母のような生活、母が当たり前にやってきたこと、そういうことに幸せを感じるのだ。
電化製品は少なく、木製品に囲まれた生活。蔦を編むことはできないけれど、祖母の作ったかごがところどころにある部屋。
豪華な食材は並ばず、簡単な調理のものが多いけど、素材から作ったシンプルなご飯が並ぶ食卓。

母が丈やボタンを直し譲ってくれた服。
ダメになったバスタオルやタオルはバスマットや雑巾になり、着られなくなり売ることもできない服はチャックやボタンを残してボロ布へ。こうして残ったチャックやボタンは再利用される。

そういったものに囲まれた生活を穏やかで心地よいと思うようになった。
もう中身はすっかりおばあちゃんなのかもしれない。一応言っておくと私も平成生まれなのだが。

お金をかけずに手間をかける生活にシフトし、気持ちに余裕ができた

最近ではこういう暮らしを良いとする考えや、結果としてこういう暮らしをせざるを得なくなった人も増えたように見える。
ネット上では同じようにしている人を見かけることもある。なんだ、私一人じゃない。

それでもやはり同年代でそれはなかなか少ない。
友人たちは皆働きながら家のこともしている。そりゃ大変だろう。お金で手間を買うのもわかる。お金で買えるものはたくさんあるから、お金はあればあるだけいい。稼げれば稼げるだけいいはずだ。

仕事のやりがいを感じている人も多いだろう。私にはもう縁遠いものだけれど、人それぞれ、仕事それぞれだ。
まぁ別にどちらにせよそれはそれでいいんじゃないかと思うけれど、ここでの投稿を見ているとどうやらそれに疲れている人も多いようだ。

お金をかけずに手間をかける生活。地味で質素で味気なくて貧乏に見えるかもしれないけれど、気持ちの余裕はそこそこある。気がする。
少なくとも、もやもやした気持ちで忙しくしているところからこういう生活に移った時はなんだかすっきりした。

お金が大事なんてわざわざ言うまでもないこと。でも、お金と時間を天秤にかけたら?
きっとどちらもあるのがいいんだろう。
お金をかけずに時間をかける生活もいかがでしょうか。