私の部屋で出番を待つプレゼント。視界に入るたびに、つい口角があがる

自分の部屋というのは、自分の世界のうちの一部が表出したものだと思う。
たとえば私の部屋なら、付箋だらけの参考書が棚に並んでいて、一流大学に行くための軌跡を残しているし、ベッドには大小さまざまなぬいぐるみが座っていることも、あまり外では見せないけれど、たしかに私の一面だ。読み終わった本やこれから読む本はどんどん増えていき、それらは自分の世界が拡張してきて、さらにこれから拡張していくことを表している。椅子にかかったウインドブレーカーは、途中でやめてしまった大学の部活のもので、未練とも、愛着とも言える。部屋は、私の経歴を表し、私の可能性をも持ち合わせている。部屋とは、私そのものなのだ。
だから、「自分の部屋にあって嬉しいもの」というのはそのまま、自分の心で常に感じていたいときめきなのだ。そして私がいちばん部屋にあって嬉しいものは、常にはないものでもある。
これから人にあげるプレゼント。それが私のときめきである。
思い返せば小学生のころから、誰かにプレゼントをあげることが好きだった。クラスメイトの妹と仲良くなり、当時はやっていた、お菓子のかおりとパッケージを模したカラーペンを、手紙に添えて渡していた。三学年上の姉に、お小遣いをはたいて、リュックに洋服をつめ、幼心にちょっとしたサプライズを演出した。
プレゼントがあげることが好き、という私の性質は、最近になってさらに強くなっている。もともとあまり贅沢をするのが得意ではなく、交通費を浮かせるために長距離を歩くこともよくするし、回転寿司では百円の皿しか食べられないし、百円のお菓子を買うのにも、棚の前でうろうろしながらしばらく悩んでしまう。大学生になってアルバイトをするようになると、自由に使えるお金が多くなり、散財したい気分になることもある。しかしあまり自分にお金がかけられないので、そのぶん、プレゼントで散財してしまうのだ(いい化粧品や脱毛など、自分にかけるべきお金があることも理解してはいるのだが……)。
二十歳を越えて、プレゼントはかつてに比べて、格段に豪華になった。友人へのプレゼントは、たとえば化粧品なんかが定番だ。中身が豪華になると、そのお店でしてもらえるラッピングも、素敵なものになる。リボンつきの箱や紙袋には、物そのものの価値以上に、受け取る側にこれから訪れるであろう喜びと、その喜びを受け取ることのできる私のわくわくとが詰まっている。部屋で出番を待っているプレゼントが視界に入るたび、つい口角があがってしまう。
プレゼントはまた、友人と私との関係を表してもいる。
プレゼントを買いに行くとき、「あの子の誕生日が近いから何か探しに行こう」と出かけることもあるし、ネットサーフィンやウインドウショッピングの最中に心ときめくものを見つけて、「あの子にあげよう」と思うこともある。どちらにしても、私はその瞬間、その子のSNSの投稿やこれまでの言動、持ち物なんかを思い出し、その子のことだけを考え、その子の喜ぶ姿を想像している。それをどれほど鮮明に描けるか、つまり相手のことをどれくらい知っているかが、プレゼント選びでは重要なのだ。ドレッシング塩や万年筆など、定番ではないプレゼントで喜んでもらったときは、私の喜びもひときわ大きい。
そんなふうに、その子への思いがつまったものが家にあることも、私に幸福感をもたらすのだ。
私の世界の中に、喜んでほしい誰かの存在を感じること。誰かの笑顔を感じること。そのときめきを常に感じていたいから、私は自分の部屋に、出番を待つプレゼントを飾っている。
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