高校生の頃から、性格診断にはまっていた。
インターネットでの心理テスト形式のものを好み、結果のページであなたは「冷静なタイプ」だと言われればそうかもしれないと感じ、「実は悩みやすいタイプ」だと言われてもそうそう、と思い、「寂しがりや」という結果が出てもとりあえずそうだよね、と感じた。
色々なサイトを渡り歩いて、あらゆる種類のテストを試し、結果が出てあなたはこのようなタイプです、とカテゴライズされると安心した。
自分は何者でもなく何物にもなれないのかも、という不安と息苦しさ
自分の事をとにかく「何者か」として名付けてほしくて、なおかつ他の人とは違う「私らしさ」を必死に求めていた。ここまでひどくなくても、性格診断なるものが好きな人は一定数いると思う。この広い社会の中で自分は何者でもないし、何物にもなれないのかもしれない、という不安がこのような行動に繋がっていたのだと思う。
できるだけ「個性的」だと思われたくて、周りでやっている人が少ない趣味に手を出してみたり、どのような発言や行動をすれば他の人とは少しでも違って見えるのか、なんていうことを常に考えたりしながら過ごしていた。
結果的には「変わっているね」なんて言われることもあって、他の人が自分をカテゴライズしてくれるという状況に安心感を覚えることも多かった。それと同時に息苦しさも感じていた。
不定形の「私」の中で生きていければ十分だと思う
その後、大学に入ってみると本当に様々な人がいた。
会話の中でいつも皆を驚かせるような独特の発言をする人もいたし、私にはよく分からないマイナーな映画にはまっている人もいた。ある人はこの本が好き。でも、あの人はそのアーティストが好き。また別の人はこの曲が好きみたい。そもそも皆の国籍や何から何まで異なっていた。変な言い方かもしれないけれど、皆が「同じように異なって」いた。
そもそも、一人の人にも色々な面があって、一概にこの人はこんな人、と名付けることも難しく、それは私自身も同じなのだということにやっと気がついた。
人間なんて皆同じように一人ひとり違うし、そもそも常にアイデンティティは変化していくはずだ。そんな中で他の人と違う何かを求めて、無理をする必要なんてあるのだろうか。
見方によれば、同じ人はいないという点において、私たちは一人ひとり特別な存在である。
はたまた、皆が「同じように異なる」という点では、個人間にさほどの大きな差はなく、離れて見れば誰一人として際立った存在であることなんてできないだろう。でも、それがどれほど重要なことなのだろうか。
どちらにしろ、私そのものは変わらないわけだし、「私らしさ」なんていう確立されたアイデンティティを見つけることができなくても、不定形の「私」の中で生きていければ十分だと思う。
肩の力を抜いて、自分の心に正直に生き始めることで見えてきたもの
皆とは違う人になりたいと「個性」を求め、私って結局何なのだろうと不安を感じながら一貫したアイデンティティを求め、もがいてきた自分の中での戦いから、最近ようやく解放されつつある。肩の力を抜いて、自分の心に正直に生き始めることで、ようやく「私らしさ」がぼんやりと感じられるようになるのかもしれない。
まあ、そんなものは絶対に欲しいものでも必要なものでもないから、今となっては正直どうでもよいのだけど。そんなこんなで最近はすっかり性格診断にご無沙汰だ。