男尊女卑的な家庭で育った私
私のコンプレックスは、奨学金を借りていないことだ。
私は今大学生で、学費を親に払ってもらっている。奨学金制度は、利用していない。つまり私は今後働くようになっても、奨学金という借金を負うことはない。私の兄は、払っているのに。
私は男尊女卑的な価値観が割と色濃く残っている家で育った。
具体的には、兄の部屋は母が掃除するのに、私の部屋はしてもらえない、兄は食事の準備を手伝わなくても何も言われないが、私は叱られる、などなど。
些細なことだと思われるだろうが、そのすべてを「女の子なのだから」という枕詞付きで言い渡され続けると、自分は「私」ではなく「女性」としてしか見られていないのではないかと思うようになった。
同時に、自分のジェンダーが女性であることが嫌になっていった。幸い、不器用な兄とは違って器用で、処世術にも長けているという自信があった私は、「ジェンダーなんて気にしねえ!男性並みに稼いでやる!」といった気概に満ちていた。
「女の子だから」という理由で奨学金を払わせてもらえなかった
そんな思いを抱えながら大学受験を終え、さあ兄と同じように奨学金の手続きを、と思っていたときに親から告げられたのは、「『女の子なのだから』、奨学金なんて払わせられない」という言葉だった。
衝撃で、目の前が暗くなった。
やはり親は私を「女性」としか見ていないと思った。
呆然としている間に奨学金申請期間は終わり、私は親のお金で私立大学に4年間通うことが決定してしまった。兄はすでに社会人で、奨学金を払い始めていた。この瞬間、私は兄に、男性というジェンダーに敵うことは一生ないのだとわからされた気がした。
自分は女性というジェンダーで、兄に、男性に引け目を感じて生きていくしかないのだと感じた。悔しくて仕方がなかった。
それから2年が経った。私は春から大学3年生になる。就職活動に向けて動き出す中で、これだけ男女平等が叫ばれていてもなお、女性の賃金が男性よりも低いことや、女性が働き続けるのが難しいことを知った。
同時に、「『女の子なのだから』、奨学金なんて払わせられない」という発言に隠された親の愛も理解できるようになった。
親の思いやりは、男性優位社会の再生産を引き起こすのではないか
「女の子なのだから」という枕詞付きの発言のすべてには、「この社会で、『女性』である『私』が幸せに生きられるように」という親の思いやりがあったのだろうと思う。
親の方が社会経験豊富なのだから、どうすれば社会で生きやすいのかを知っている。
社会に迎合することだ。
私が社会の求める女性像に迎合できるように、女性というジェンダーを有して幸せに生きられるように、という思いで、ああいった発言をしてくれたのだろう。
「私」を「女性」としか見ていないからではない。「女性」である「私」の幸せを願ってこその行動だ。
しかし、この思いやりを理解はできても、この教育に疑問を持たずにはいられない。愛ゆえの社会への迎合教育は、男性優位社会の再生産を引き起こすのではないか、ということだ。
「女の敵は女」がなくならない理由
「女の敵は女」という、使い古された、しかしまだ消えていない言葉がある。この言葉が消えないのは、また、「だけど、女の味方も女」という下の句が生まれないのは、「女の敵は女」というマインドを持っている女性の方が、いまだ男性優位な社会に迎合しやすい、生きやすいからではないかと思う。そうした迎合が繰り返されているうちは、女性の幅広い登用は進まないだろうし、それが進まない限り「女の味方は女」という言葉が台頭することもない。
私たちは、男女平等社会の発展途上を生きている。男性優位社会に抗い、男女平等を叫ぶ人がいなければ、私は自分が奨学金を借りられないことを悔しく思うこともなかっただろう。
だから私はそうして叫んでくれた人々に感謝したい。
そして、悔しい思いをした、悔しいと思えた私だからこそ、男女平等社会の実現のために行動できると思う。
発展途上を生きるというのは、つらい。今ある大枠に迎合した方が生きやすいのがわかっていてそれに抗うというのは体力がいる。
それでも未来のために、抗って、再生産を止めて、新しい社会を作ることに参加しなければならないと思う。