高校三年生の1月末。受験も終盤に差し掛り、追い込まれていた私は何もかもから逃げ出したくて、暗い暗い公園に向かった。夜の公園は自分を酷くかけ離れた姿にしてくれる気がしたのだ。
ぼんやりと薄く自分の影を見つけて振り返ると眩しいほどに明るい月が私を照らしていた。その頼もしさにため息をつきながら、中学生の頃の国語教師の話を思い出した。

教師が何を語っているのか、わからなかった

「酷く疲れ果てていた時、蟻を見つけて涙しました。僕は何処にでも居る蟻なんてものを忘れていたからです」

入学したてほやほやの私たちはこの教師が何を語っているのか、およそ分からなかった。地上に蟻がいるという事実は物心ついた時から知ってるくらいに身近なことだった。蟻なんてものを忘れるだろうか。公園で遊べば、あの小さな生き物が巣にいる仲間のために働いている姿を何時でも見られた。

しかし、思い返せばなんてことは無い。蟻なんて直ぐに忘れる。この教師の言葉が無ければ、忘れていたことにも気が付かなかっただろう。私は公園の横を歩いて通学しても、その存在に意識を向けることは無くなっていた。「蟻」なんて名詞は月に1度使えばいい方である。

月も同じだ。昔は夜空が大好きで望遠鏡を買ってもらってたりした。毎日観察して風邪をひいた。習い事から帰る時には、今日は月が明るいからなんて言ってダラダラ駄べりながらゆっくり帰って怒られるなんてのが日常茶飯事だった。
私はいつからこの月を忘れていたのだろう。毎晩空に上るはずのこの星をもう何ヶ月も見ていなかった気がする。なぜ夜空で1番に輝くこの星を忘れていたのだろう。もう思い返しても分からなかった。

今ならあの教師が言っていたことがわかる気がする

そんな中、偶然なのか必然なのかその日に久しぶりに認識した月を見つめていたら何だかとても物悲しくなった。それはひとつのことに囚われてこの美しさを感じられなくなっていた自分に対するものだった。
昔、大好きだったものを嫌いになった訳でもなくて、ただ忘れてしまった自分に対してのものだった。毎日昇るはずの月を感じ取れなくなってしまった自分に対するものだった。
月の美しさに自分の醜さが対比されてしまって、恐竜の化石を発掘するかのようにどんどん浮き彫りになっていった。それでも1月末の寒空の下、今までその存在すらも忘れてた月が私をほのかに照らして暖めてくれた気がした。

今ならあの教師の言っていたことが少し分かる気がする。
彼は当たり前のことを忘れていた自分に涙したのだと思う。周りの些細な幸せを見つけられない情けなさに涙したのだと思う。

私は中学のあの先生に感謝しなくてはいけない。きっとあの話がなければ、月を見ても、月を見つけた自分を見つけられなかっただろうから。月を久々に見つけた醜い自分を愛せなかっただろうから。

何も見えなくなったら立ち止まる。見えてくるものがある

そして彼は最後にこう言った。
「足元の蟻を忘れてはいけません。」

すぐには理解出来なかったこの言葉が、この最後のひとことが、ゆっくりと私を変えていき、今の私を形作り、支えている。
それは広い視野を持つということ。子ども心を忘れないということ。何も見えなくなってしまったら1度立ち止まって周りを見渡すこと。
そして、夜の月を忘れないということだ。