祖母の家には三姉妹の七五三の写真がそれぞれ飾られている。真ん中のしかめっ面が私。姉と妹の笑顔の写真に挟まれているから、余計に際立つ。祖母の家に行くたびに、決まりの悪さを感じてしまう。でも、半ば強制的に塗られたあの真っ赤な口紅がとにかく嫌だった。だから仕方ない。

私は化粧が嫌いだ。毛を剃るのも嫌い

中学・高校にあがるにつれ、周囲に私の嫌いな紅色の唇が増えていった。高校を卒業する頃、女友達がつぶやいた。「マナーだし、そろそろちゃんと化粧しないとね」。強烈な不快感がこみ上げてきたけど、言いたいことがありすぎたから、ただ苦笑した。最近、社会人の女友達から似たような台詞を聞いた。「そろそろ脱毛しないとね。ほんちゃんはいつやるの?」。ため息が出た。そんな何気ない言葉に、生まれてきたそのままの外見が否定されている気がする。なんで、この顔やこの体を変えて「女」になることが当然視されているんだろう。

そんな違和感から、私は化粧を嫌う。毛を剃るのも嫌う。ちなみに、マニキュアもかわいいブラも好きじゃない。これはたぶん趣味嗜好の問題だけど。

気に入られるために「男」に媚びをうるのも、もちろん嫌い。外見だけじゃなく、自分のそのままの内面をも否定するような気がするから。もし私が化粧やマニキュアが好きだったとしても、「男」のためにすることには断固抵抗したいと思う。

社会の中で幅をきかせる「あるべき『女』の像」。それに私を近づけようとする圧力、それから離れた私をいぶかしげに見る目、不快だ。「フツーにかわいい」、「フツーにモテる」「女」たちに、うらやましさを感じる時がないわけではない。そういうふうになれたら、中学の時、クラスの男たちに「ゴツ子」と名付けられて影口をたたかれたり、高校の時、生物の実験でペアになった男に「おまえじゃなくて女子と組みたかったわ」と不満げに言われたり、頼んでもないのに「もう少しかわいくなればすぐ彼氏ができるよ」と、彼氏いない歴=年齢であった私に大真面目にアドバイスしてくる女友達に対応したりしなくて済んだかもしれない。

彼は、私の「ありのまま」を「いいね」と言ってくる

ひねくれた私は、「女」でなければ認めてくれない男たちや、「女」になることを当然視してくる女たちの日常的な些細な声を脳内で増幅させて、「ありのまま」を貫くことは形見が狭いことだと思って生きてきた。「女って、男に愛されて初めて全てを承認される気がする」、親しい友人にそう言われた時には悔し涙が出た。性別問わず、好きな人は今までいたけど、「女」になれない「ありのまま」の私を認めてもらえることはゼロに等しいと悲観してたから、気持ちを伝える努力はあまりしてこなかった。

22歳の夏、留学先のオーストラリアで、私の下手な英語を「かわいい」と言う変わった男に出会った。アディダスの帽子を被った、髭が特徴的な背の高い男だった。何度か外出を重ねた後、この人なら私の「ありのまま」を受け止めてくれるかもしれないと直感した。ある日家に誘われた。彼とは、ようやく手を繋ぐようになったくらいだから、何も起きないだろうと私は高を括っていた。だから、口紅のない唇に触れた後、「服を脱がせても良い?」と彼が耳元でささやいた時、一瞬パニックに陥った。数秒の間だったが、頭の中では言い争いがせわしなく行なわれていた。Yesと言うか、「女」になって出直すべきか…。

結局、前者が勝った。やっぱり、「ありのまま」の私を曲げて「男」に媚びたくないし、そんな私を好きになってほしくないと思ったのだ。だから覚悟を決めて、UNIQLOの黒色のブラトップと、ドンキホーテで買った灰色のパンツを身につけた、脇毛ぼーぼーの体を差し出した。体毛が露わになった時、私はぎゅっと目を閉じた。この男も、私じゃなくて「女」を欲してたらどうしよう…。杞憂だった。Youtubeの脱毛の動画広告では、こんな時「男」は途端に態度を変えるらしいが、彼は、私のことを生まれたての赤ん坊みたいに、優しく、丁重に触れてきた。広告と違ってあまりにも大事そうに扱われるから、笑いがこみ上げてきた。彼の腕の中に顔を埋めて笑っていたら、今度は目頭が熱くなった。私の生き方は間違ってなんかいなかったんだ、心からそう思えた。もう一度ゆっくり瞼を閉じた時、言葉に表せない程の安心感に満たされた。後日、下の毛は剃って欲しいと言われ、理由に納得できたから、たまに下だけは剃った。

彼は、私の「ありのまま」を「いいね」と言ってくる。頑固でひねくれた「男」勝りな性格にも、ぼーぼーの脇毛にも、たぷたぷの私のお腹にも「いいね」。バイセクシャルだと打ち明ければ、「わかった。いいね」。私も、アディダスの下に隠れていた薄毛や、彼が喧嘩するとすぐ泣くところも、「いいね」と言うことにした。少なくとも「ありのまま」を見せてくれるところが嬉しい。

「ありのままの自分」を一番愛するべきなのは私自身

彼と出会って、私が帰国して、コロナが蔓延して、彼の日本行きの飛行機がキャンセルになったこの一年で、彼は私に何度も言った。

「ありのままの君が好きだよ。だけど、僕や周りが何を言ったかは、君の意思より重要じゃない。なによりも大事なのは君の意思だ。」

そう言われる度に、「そんなこと分かってる」と悪態をつきながらも、彼を抱きしめたくなる衝動に駆られてしまう。陳腐な台詞。でも鼻の奥がじんとする。私がなんだかんだ他人の評価を気にして生きていることが見透かされていた。遠距離恋愛中だから、今はオンラインでしか聞けないけれど、この言葉の力は圧倒的。23年間、「ありのまま」を自分からも他人からも否定された数々の経験を引き算しても、余りあるほどのプラスの威力がある。

彼の存在や、彼の言葉から学んだことがいくつもある。
ひとつめ、「相手を愛するということは、相手を変えようとしない」ということ。自分の好みを言ったり、相手のそれに耳を傾けたりすることは、ときには必要だけど。
ふたつめ、「」付きの男女を押し付ける人ばかりだと思い込まないこと。少数かもしれないけど、彼みたいな男性はいるのだろうし、「女」であるべきだという押し付けに抵抗する紅色の唇の女性は大勢いる。

最後に、ぶよぶよのお腹やぼーぼーの脇毛を一番に愛するべきなのは、私自身だということ。「ありのままの自分」でいることに形見の狭さを感じるかどうかは、究極は私の問題なのだから。

蛇足になるが、彼とは次にいつ会えるかわからない。正直なところ、母国に貢献したい彼と、日本で自分の夢を追い求める私の人生がいつ交差するかは検討もつかない。でも、私自身が「ありのまま」でいることを愛せるならば、きっと彼が私の人生から離れていってしまっても、私は幸せでいられるはずだ。そう思って、私は私らしく生きていきたい。