ミニスカートを穿く友人の脚に、釘付けになった。ピタッと短いスカートから、スラリと形の良い脚が伸びる。ストッキングも穿いていない脚は、惜しげも無く太陽に晒され、白くスベスベしていて、神々しい。思わず「おみあし…」と呟いてしまった。

「いいね、似合ってるね」と言ったら、「○○も穿けば?きっと似合うよ」と言われた。ミニ丈の洋服を持っていないわけではない。それでも私は、ミニスカを穿けない。穿かない理由がある。

私は、脱毛をしていないのだ。

「全身脱毛してない」と答える事に、恥ずかしさを感じるのは私だけ?

全身脱毛は、いまや市民権を得た。お金のある芸能人やモデルだけのものではなく、十数万円から始められる、美容の常識となりつつある。

頑張って働けば手が届く存在になったからこそ、全身脱毛をしていないという事が、女としての怠慢を意味するようになった気がする。友達に聞かれて「全身脱毛に通っていない」と答える事自体に、恥ずかしさを感じるのは私だけだろうか。

私が脱毛を始めない一番の理由は、痛みとお金。
なぜ、私がお金を払って、痛い思いをしなきゃいけないんだ(痛くない脱毛法があることもリサーチ済みだが、効果の即効性とトレードオフなら話にならない)? ちょっとくらい毛が生えてたって、別にいいじゃん、誰も気にしないでしょ? 別に脱毛なんかしなくても、必要な時に剃ればいいだけの話じゃん。

勢いで、短い丈の洋服を着たことがある。
「まあいいか、誰も私の脚なんて見てないだろ」と、家を出るまでは威勢がよかった。事態は、電車に乗って急展開。

ふと、ふくらはぎの後ろの毛をきちんと剃ったか不安になる。電車に座ると、対面の人に晒されるスネに剃り残しがないかそわそわと気をもむ。剃る事を諦めた太ももをふんわりと覆う産毛がそよりと風を纏うたび、なぜか冷や汗が滲む。

いつから、女とは「毛がない生き物」になったのだろう?

少し前の記憶が頭に蘇る。太ももに手を置いていた旦那がふと「毛が生えてるね」と言った。なんの他意もないとわかりつつ、つい咆哮してしまった。「当たり前じゃん!私たち動物なんだから!」

いつから、女とは毛がない生き物になったのだろう? いつから私は、毛がある事を恥ずかしいと思うようになったのだろう? 動物だからこそ、その自然なあり方に手を加え姿形を変えていくことが、人間たる進化だとでもいうのだろうか。

刃物メーカーの「#剃るに自由を」なんて広告も話題になった。問題提起自体は心から賞賛するが、剃らない事に対する恥ずかしさはどうにも消えない。インスパイアされて明日から毛を剃る事を辞めるかと聞かれたら、辞めないだろう。

私を守るために生まれた毛。私に怠慢な女のレッテルを貼る毛。疎まれながらそり落とされていく毛。「私の一部なんだけどなぁ」と思う。どうしてこうも、私の思惑と一致した働きをしてくれないのか。

欧米では、脇毛は剃っても、体毛は剃らない人がほとんどだ。少し前までオーストラリアに住んでいたが、友人たちの腕にしっかり生えた毛が、強力な太陽光を浴びてキラキラ反射していたのを思い出す。

ありのままの自分を愛せというくせに「ありのままの素肌」はタブー?

悩むくらいなら、痛さに歯を食いしばって全身脱毛しちゃえばいいのに。そんな声も聞こえてきそうだが、私のなかで折り合いは付いていない。

なんで女は毛を無くさなきゃいけないの? なんで毛が生えていると、恥ずかしく感じるの? なんで“ありのままの自分を愛せ”とかいうくせに、“ありのままの素肌”はタブーなの?

太眉と細眉のトレンドが繰り返すように、トレンドが一周して帰ってきて、産毛の生えたナチュラルスキンの人気が盛り返す時代もくるのではなかろうか。

なんで恥ずかしいかもわからないまま、今日も私を恥かしめるムダ毛を抱えて、脱毛広告の狭間で揺れている。