どうして私はこんなにダメなんだろう。他人と関わる度にそう思い、自己嫌悪に陥っていた。容姿、声、体、考え方、頭の悪さ、性格の悪さ。挙げだしたらきりがない。自分の全てが嫌いだった。「頭いいね」「可愛いね」「すごいね」。かけてもらえる誉め言葉も全て相手の本心ではなく、皮肉を言われているのだと感じてしまう。どうしてこんなにもひねくれていたのか。その理由は自分でも分かっていた。

4歳離れた姉はとても優秀な人で憧れの対象だった

 私には4歳離れた姉がいる。姉はとても優秀な人で、物心ついた頃には何でもできる憧れの対象だった。
 姉との違いに気付いたのは小学生の頃だった。マラソン大会で姉は2位を取ったが、私は最下位から数えた方が早かった。その時の母の一言は今でも忘れられない。
 「ねーねは2位だったのに」
 母の言葉に含まれた落胆と期待に答えられなかった自分に嫌気がさした。そして、その時、私が期待されている「普通に出来る」の基準が「姉と同じくらい出来る」ことなのだと気付いた。
 その後も同じ中学、高校と進学したのに、姉は誰もがすごいと言うような優秀な大学に進学し、誰もが知っているような大企業に就職した。一方で私は姉のように部活で良い成績を残すことも優秀な大学に行くことも出来なかった。

 姉は私にないものを沢山持っていた。それが羨ましくてずるくて、大好きなはずの姉が一番のコンプレックスになり、関わり方も分からなくなった。姉と比較されるのが嫌で同じ家にいるのが辛かった。
 しかし、こんな醜い嫉妬の感情なんて家族には話せないため、用事もないのに外出して距離を置いていた。やりたいと思ったことも姉がやっていたら避けるようになった。

他人に比べられていたのではなく、自分自身で他人と比べて自分を下げていた

 毎日毎日自分に失望していた時、信頼する友人がこんな言葉をかけてくれた。
「個性は自分にないから人の個性を羨ましく思うだけ。自分の個性はすごいもんだと自分を褒めてあげて。」
 この言葉を聞いて、私は私に本当にひどいことをしていたのだと気付いた。他人に比べられていたのではなく、自分自身で他人と比べて自分を下げていたのだ。他人と違うのは悪いことではない。違いは個性。全員誰よりも特別なのだ。私も私にしかないものを持っている。私の個性はすごいんだ。そう思うことで気が楽になった。

 他人の全てを理解することは出来ないし、自分の全てを理解してもらうことも出来ない。自分の良いところも悪いところも一番分かってあげられるのは自分だ。

私は私。他人と比べて自分の個性を消すのはもうやめる。

 人生は短い。気づいたら社会に出る年になってしまった。だからこそ、他人を気にして落ち込んでいる暇などない。他の人が持っているものを自分が持っていないから何?みんなが同じものを持っていたらとてもつまらない。誰もが世界に一人しかいない唯一無二の存在なのだ。私は私のやりたいことをやる。私は私。他人と比べて自分の個性を消すのはもうやめる。人から評価される私ではなく、私のなりたい私になる。
 それでも落ち込むことは沢山ある。しかし、それは他人と違うから、他人よりできなかったから落ち込んでいるのではない。私がなりたい自分に届かないから落ち込んでいるのだ。
 私の基準は私だ。自分を愛せ。自信を持て。誰よりも特別な私。