自分のために女でいる人はこの世にどれくらいいるのだろう。本当にしたい化粧、服装、髪型、香り、振舞いを身につけているのはどんな人だろう。
ふとしたとき、何のために着飾るのかわからなくなるときがある。
つくづく女は生きづらい。女が人として扱われる基準はきちんと女であるかどうかで判断される。男は生まれながらにして人間だが、女は生まれてから女としての蘇生術を身に着けてはじめて人間になるように思う。そして女が人である基準は女性の社会進出と比例するように厳しくなっている。
私は男女問わず、中性的な存在が好きだ。自分もできるだけそうありたいと思っている。強いて言えば、ユニセックスなのにどこか女性らしい。そんな存在になりたい。男になりたいわけではないし、女としての自分は好きだ。ただ、女性性として搾取されることはとても耐えがたいことだった。
私の個性を女性という型に当てはめられる度に、女性という性別を恨んだ
初めて違和感を覚えたのは高校卒業後。大学生へ進学して、私服を着るようになり化粧を覚えた頃だった。忘れられないような言葉がたくさんある。
「お前は胸がでかいから価値がある」嫌でも人目を惹くEカップの胸。胸の大きさなんかで人の価値なんて決まるわけがない。「その口紅浮いてるから落とせよ」似合っていると思っていた発色の良いマッドでオレンジ色の口紅。あんたのためにつけているわけじゃない。「髪伸ばしたら?」後ろ髪を刈り上げたベリーショート。襟足に髪が触れる感触が嫌いな私はこの髪型が大のお気に入りだった。
私の個性を女性という型に当てはめられる度に、女性という性別を恨んだ。
明るい茶髪にゆるふわパーマ、ブラウス、フレアスカートやパンプス。量産型女子大生のような服装はたしかによくモテた。しかしモテるために選んだ服装の中にアイデンティティは存在しなかった。
どこにでもいるようなかわいさに踊らされる男も、そんな男に媚びるような服装を望んで着るような女も、いつからか大嫌いになった。私は誰にも搾取されない強い人間になることを決意した。
励ましの皮を被った暴論は私の心を引き裂いた
それから大学在学中に就職活動を始めた。その頃の私の目標はバリキャリ(バリバリに働くキャリアウーマンの意)になることだった。女性が一人の人間として生き抜くためには、自立してお金を稼げるようになることが必要だと思っていたから。
しかし、私は病気で会社を辞めざるを得なくなった。キャリアプランにはない出来事に私は挫折した。ただありがたいことに仕事を辞めてからも周りの態度は変わらなかった。家族も友人も「大変だったね」「よく頑張ったね」という労いの言葉をかけてくれた。
その一方で、励ましの皮を被った暴論は私の心を引き裂いた。
「女の子で良かったね」「女子は玉の輿で逆転できるよ」「結婚できれば心配いらない」
それは私にとってとても屈辱的な言葉だった。社会から爪弾きされた私は人間でいるための武器を一つ失った。社会に適応できない女は男に愛されるように生きていかないと生き残れないらしい。
女性性の呪縛から解き放たれる日は来るのだろうか
それから私は自分の価値を見失った。ムダ毛の処理が甘いところ。化粧が薄いところ。服装はモノトーンにパンツスタイルを好むところ。髪は短くヘアアレンジが少ないところ。それは一般的に「女」が求められているものとはかけ離れていた。
今は「かっこいい」よりも「かわいい」と言われることに安心している。自立していることよりも、頼りなげで助けてあげたいと思われることに「女」としての価値を見出している。それは今、一人で立っていられない私のたしかな蘇生術だった。
私はこれから何度もこんな思いをして生きていくのだろうか。女性性の呪縛から解き放たれる日は来るのだろうか。私は葛藤している、誰のために女でいるのか。男に媚びたくない。でも好かれたほうが生きやすい。アイデンティティと蘇生術のバランスをとって私は今日も女でいる。