「あんたって、将来友だちおらんくなるタイプやよな」
これは、私が大学一年の秋ごろに母から言われたひとこと。
私は返す言葉もなかった。ショックだったからじゃない。「それもアリかな」と楽になった自分に気づいたからである。

「いや失礼やな」最初に思ったのはこれ。
そもそも、私はそれまで友だちが少ないなんて考えたことはただの一度もなかった。だって実際、中学時代・高校時代、私は友だちが多い方の人間だったのだから。
私は、人との間にトラブルを起こさないことが大の得意だ。しかも幸い、大阪人の性なのか、話もそこそこうまい、はず。相手によっては自分から話して場を盛り上げてみるし、相手によってはずっと聞き手に徹してみる。そうやって男女問わず、気の強い子でも気の弱い子でも、ちょうどよい距離感で接してきた。

私は「すでに友だち少なくないか…?」と気が付いた

でも母は、私を「友だちおらんくなるタイプ」と言った。
私はこのとき初めて、あれ、今でも連絡とって会ってる友だちって何人おるっけ…?
自分から連絡して予定合わせたことってあったっけ…?
と、“友だちが多いはず”の自分の現状に目を向けたのだった。
結果から言えば、「友だちおらんくなる」要素ありまくり。在学中友だちが多かった私は、卒業すると自分から連絡をしない連絡不精、さらに、予定を合わせるための何往復にもわたる連絡を億劫がってしまうようなヤツだった。
「すでに友だち少なくないか…?」とよぎるまでに、そう時間はかからなかった。

ちなみに、私に辛辣な言葉をかけた母は、友だちが多い。
学生時代の友だちと未だに連絡を取り合ったり誕生日プレゼントを交換したり、当時と変わらず仲よくしているんだと思う。
そんな母とこんな私の違いは何だろう。たぶん人との関わり合いの深さである。
好きな人・そうでない人がハッキリしている母は、合わない人もいる代わりに、好きな人と深―く長―く付き合っている。一方、好きな人はいるけど、誰かを嫌いになるような気力を持ち合わせていない私は、いろんな人と問題なく薄っすら付き合ってきたのかもしれない。

「友だち少なくてもええやん」と思えた 今いる友達を大事にする

と、ここまで書いてみると、一見私が母の言葉を気にしているようになってしまった。
しかし、初めに書いたように、母のひとことで私は楽になったのだ。
「友だちいらんわ」と思ったんじゃない。「友だち少なくてもええやん」と思えたのだ。
これまでの私にとって、友だちが多いことは自分の価値のひとつだった。すごく大事で必要なことだと思っていた。だから心のどこかで、卒業しても関係が続いている友だちが少ないことを、意識しないようにしていたような気がする。

母のひとことは、そんな私に実際の私の姿を教えてくれた。
そういう未来でもアリだなとビジョンを示してくれた。
なんてことない。連絡不精で友だち少ないのが私なんや。
面と向かって言われると、案外すんなり受け入れられるものである。

それに、こんな連絡不精で積極性のない私にも、それでも連絡してきてくれて遊んでくれる友だちがいる。
私はその人たちを大事にしていこう、それが私のこれからの心がけである。
そのためには、今のままの態度じゃあかんよな。
たまには、自分から連絡してみようかな。

これからは、“友だちがあんまし多くない”私でもいいかも

母が放った「あんたって、将来友だちおらんくなるタイプやよな」というひとことは、私に自分でも気づいていなかった私をたたきつけてきた。そして私に、友だち関係におけるちょっとの反省を促していった。
これからは、“友だちがあんまし多くない”私でもいいかもしれない。