いつからだろう?
気づいた時には地黒の肌がコンプレックスだった。

いつからだろう?
気づいた時には自分はかわいくなんてなれないって諦めてた。

いつからだろう?
綺麗な子やかわいい子に引け目を感じたり、男の子と目を見て話すことが怖くなったのは。

溢れる「美白」の言葉に色黒な自分を肯定することなんてできなかった

小学生の時、「足黒いな」って男の子に言われて、「そんなこと言わんでいいやん」って庇ってくれた女の子がいて、
「色白だね」は褒め言葉になっても、「色黒だね」は人に言ってはいけない言葉なんだと知った。

気づいた時には私は、異性を気にしてオシャレを楽しむ年頃になっていて、でもいつだって雑誌やCM、私の周りには、「美白」という言葉が溢れていた。
そのささいな2文字が積み重なると、もう私は、色黒を肯定することなんてできなくなっていた。

どうせどうせどうせどうせどうせどうせどうせどうせ私なんてかわいくなれないし

でもそんな自分を他人の前に晒すことが
恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて

でも大学2年生でアメリカに留学をした時、そんな私が、心の底からメイクやファッションを楽しいと思えて、どんな人とでも臆せず話せるようになった。

初めて見た。あんなに何十色も並ぶファンデーションを。
初めて見た。あんなに発色の良いアイシャドウを。

アメリカで買った化粧品は、私の世界の見え方を変えてくれた

アメリカ社会にも多くの問題があることは否定できないけれど、色々なニーズに合わせて用意されているコスメを見て、「ああ、これが多様性の国なんだ」って思った。
私のアメリカ人の友人はその日の気分によってファンデーションの色を変えていたし、黒人用に開発された発色の良いアイシャドウに関しても、黒人だけではなく白人の友人もお気に入りだと言って使っていた。
そこでは、それぞれの人がひとつの型に当てはまることなく、自分が楽しいと思うメイクをしていた。

日本では私の肌に合うファンデーションなんてなかなか見つけられなかったし、どのアイシャドウも私の黒い肌に負けて綺麗にのらなかったけど、アメリカで買った化粧品は、私の世界の見え方を変えてくれた。
自分の顔をパレットみたいにして、そこに鮮やかな色や光をのせていって、この世でひとつしかない芸術作品みたいに「今日の私」を演出する。
(私の知っている)アメリカでは、容姿を褒める時も、「色白でいいね!」とか「二重が綺麗だね!」「顔小さいね!」って褒めるんじゃなくて、
「その服あなたに似合っているね!」「今日のメイク素敵ね!」と言って褒めていた。
つまり、変わらないものを褒めるんじゃなくて、その人が工夫したことを褒めていた。

留学から帰国後も地黒を生かしてメイクやファッションを楽しんでいる


留学の終盤で、無意識で自分の撮った写真の肌の色がより黒く見えるように加工していた。
そっちの方がかっこいいし、ちょっとセクシーに見えるかなと思ったから。
でもそれをしている自分に気づいた瞬間、私は自分が地黒だというコンプレックスから解放されて、肌の色に囚われることなく生きられる自由を手にした気がした。

留学が終わり、日本に帰国してからも、私は自分の肌の色が黒いことを隠さず、それを活かしたメイクをして、私が素敵だなと思ったファッションを楽しんでいる。

単一の基準で「美しさ」を計ると、そこからはみ出してしまう人がでてくる気がする。
変えられないもので「美しさ」を計ると、生まれた時から自分が美しくなれるかどうかが決まってしまう気がする。
でも私は、それぞれの肌に固有の美しさがあって、それぞれの美しさの魅せ方があるって信じてる。

私は今日も歩く。
美黒の肌を魅せながら。