小2の夏休み、久しぶりに会った親戚がわたしの顔を見て「ゴミがついてるよ」と言った。その一言がきっかけで、ソバカスがわたしの初めてのコンプレックスになった。

会話をしているとき相手の視線がチラチラと、無数に散らばる茶色い斑点の上を彷徨っているのがわかる。目は口ほどに物を言うとはよくいったものだ。幸い、見た目のことでいじめられはしなかったが、こんがり焼けた黒い肌とソバカスは長年私を悩ませた。

シミ一つない白い肌こそ正義で、ソバカスだらけの黒い肌は悪?

高学年にもなると、おませな女子たちは大人顔負けに「○○ちゃんの肌、白くてうらやましい」「この日焼け止めおすすめ」「クラスで一番白いのは○○ちゃん」などの会話を繰り広げる。「一番黒いのはミユちゃん」いつかそう言われるんじゃないかと思うと、怖くてその手の会話には入れずにいた。

そんなある日、仲のいい友達に肌の色をからかわれた。冗談なのはわかっているけど、面と向かって言われるとやっぱりつらいし、肌のことで悩んでいるのを知られたくない。だからわたしは、涼しい顔を取り繕って何も気にしていないフリをして、ただ笑って受け流すしかなかった。

「ソバカス全部消えたらいいのに」家に帰ってから、そう母に言っても「気にすることない」「大人になったら化粧で隠せるから大丈夫」と返ってくるだけだった。

中学生になったわたしは、美白化粧水の存在を知り、藁にも縋る思いで近所のドラッグストアへ向かった。

手に入れた美白化粧水は、当時の私にとってお守りのような存在で、これがわたしをコンプレックスから開放してくれるのだと信じて疑わなかった。もちろん中学生のお小遣いでも買えるような化粧水に、頑固なソバカスを消せるほどの効き目はなかったし、憧れの白い肌は手に入らなかった。それでもわたしは、いつの日か憎きソバカスが消えることを信じて使い続けた。

「最初のお肌の曲がり角はハタチ」と、中学の先生が言っていたのをよく覚えている。一番前の席で、それを聞いていた14歳のわたしは不安になった。すでに角を曲がったようなわたしの肌は、これから先どうなるのだろうか。同級生たちの綺麗な肌を心の底から羨んだ。

美白化粧品や美白サプリのCMを目にするたびに、得体のしれないモヤモヤが私の心を覆いつくす。テレビや雑誌で見る“かわいい”を代表するような人たちは、みんな白くて美しい肌をしていた。シミ一つない白い肌こそ正義で、ソバカスだらけの黒い肌は悪。そんな気がしてならなかった。

「ソバカスがかわいい?」コンプレックスはスーッと軽くなった

大学3年生のある夏の日、事件は起きた。その日は体が溶けてしまいそうな暑さで、留学生の友人と会う約束をしていたわたしは、汗で化粧がドロドロにならないようにいつもより薄めの化粧で出かけた。

待ち合わせ場所に現れた友人は、わたしの顔を見るなり、満面の笑みを浮かべながらソバカスを指でつついてきのだ。驚きのあまり「何すんねん!」と心の中で叫んだ。怒りと恥ずかしさでどうにかなりそうなわたしをよそに、友人はソバカスをつつきながら「超、めっちゃ、かわいいなぁ!」とカタコトの関西弁で言った。

衝撃だった。一体ソバカスなんかのどこがかわいいというのか。遠く離れた海の向こうで育った友人にとって、ソバカスはかわいいものなのか。聞き間違えたのかもしれない。きっとそうだ、聞き間違いに違いない。

わたしがあれこれ考えている間も友人は、ソバカスをつつきながら「かわいい、かわいい」と言ってくれた。

100%愛せるわけじゃないけど、わたしはソバカスと共に生きていく

あれほど悩んでいたはずなのに、たった一言で胸のつかえが取れて、心がスーッと軽くなる。「かわいい」なんてありふれた言葉だけど。それでも、中学生の時に使っていた美白化粧水より、絶大な効果を発揮した。

肌の色や髪の色、目の色も様々な人々が暮らす海外では、きっとソバカスなんてごく普通のことなのだろう。今まで自分が、どれほど狭い世界に閉じこもっていたのか思い知った。

案外ソバカスって悪くないのかも。そう気づかせてくれた友人には、感謝している。

100%愛せるようになったわけじゃないけど、わたしはソバカスたちと共に生きていくことを選んだ。少しずつでいいから、ありのままの自分を愛せますように。