正直、私は人並みに仕事が嫌いな社会人だと思う。嫌いといってもあくまで人並み程度に。
平日は毎日仕事に間に合うように起きて、通勤の車の中では「仕事めんどくさいな」とひとり愚痴をこぼす。
それでも職場につけば、特に文句も言わず仕事をして、定時後に必要なら残業もする。帰りの車に乗り込むと「今日も疲れた」とまた愚痴をこぼして、家に帰る。
金曜日には翌日の休みを喜び、日曜日には翌日の仕事を嫌がるが、それでも仕事にいく。

仕事ってやりがいがなければいけないのだろうか

どうして仕事をするのだろう、そう考えてみると、いろんな理由が思い浮かぶ。
生活のための収入源、無職ではないという世間体、社会に貢献するというやりがい。
私にどれも全くあてはまらない訳ではないけれど、いつも仕事に行っている動機はこれではないと思う。
単に、仕事が「日常」になっているのだ。日常だから仕事に行き、いつもの仕事をし、給料日には給料が振り込まれる、そういう日常。立派な働く理由がなくても、それで日々はどうにかなっていく。

「仕事、楽しい?」基本的にはどうにかなっている私の日常もときどき揺らぐことがある。
上司にそう言われたとき、「楽しいというか日常です」と答える訳にもいかず、何も言えなかった。その日の夜は、日常になっている働く日々について立ち止まって考えた。私の日常には、こうやって自分を振り返る日が定期的にやってくる。

仕事ってやりがいがなければいけないのだろうか。どれだけの人が、仕事にやりがいを感じ、毎日の仕事をいきいきとこなしているのだろう。私はそんな人なんてごく一部で、多くは私のように仕事を日常としてこなしている思う。
こんなことを考えるとき、その仕事につくときの志望動機を振り返ればいいのかもしれないが、私が今の仕事に就いた経緯は知人の勧めだ。今の仕事に就く前、別の職場で非正規雇用で働いていた私を可哀そうに思った知人が、今の仕事の正規雇用の試験を受けることを勧めてくれた。履歴書にはそれなりの志望動機を書いたが、そんな熱量のある志望動機は最初から持ち合わせていなかった。

「人の心に支援ができるようなことがしたい」という気持ち

そもそも、仕事を始める前に考えていた働く自分とはどんなだっただろう。
「好きなことをして生きていけたらいいな」と学生時代に思ったことは覚えている。あのころは精神的に調子を崩して、なにもできない状態だった。ほとんど布団から起き上がれない生活の中で、思ったことを文章に綴ることだけはできた。そのときは、ブログのアフィリエイトで生活できたらいいな、と思った。
その後、体調が良くなってきてからは、精神的に大変な人の支援がしたいと思った。そのころにリハビリがてら非正規雇用で仕事を始め、ゆっくり時間がかかってでもお金を貯めて、専門学校に行って、それから人の心に支援ができる仕事に転職しようと漠然と思い描いていた。
非正規で仕事をして1年半程度経ったとき、知人の勧めがあり、今の仕事に転職することになった。今の仕事に就いて4年経つが、あのころ思った「好きなことを仕事にしたい」「人の心に支援ができるようなことがしたい」という気持ちは、過去のものではなく、今でも理想の自分、私がそうありたいと思う自分の姿だ。

私はまだ、理想を忘れ去りたくはない

「今の仕事では楽しいと感じられません」これもまた、「仕事楽しい?」という言葉に対する私の正直な答えだろう。
けれども、私の理想を実現し、やりがいを感じられる仕事が具体的になにかあるわけでもない。今の勤め先のどこかで、私の理想としているものが見いだせるかもしれないし、転職してもまた今と同じように仕事をただこなすだけの日常になってしまうかもしれない。
また、さらに言えば、仕事が日常になって、昔に思い描いた理想を忘れ去ってしまうのも一つの生き方かもしれない。

ただ、私はまだ、理想を忘れ去りたくはない。かといって、今すぐに今の日常を捨ててしまうだけの強い目的もない。だけれども、生涯この仕事を続ける決意はまだしたくない。
やりたいことが見つかったときは、そのチャンスに手を伸ばす。そんな気持ちを心のどこかにしまって、今日も仕事という日常にいく。