どうか神様、夢だと、聞き間違えだと、言って
あの日聞いたワードを、今でも忘れられない。
「娘」
彼は仕事用の携帯を持っていた。プライベート用の携帯で、私と電話を繋いだまま、仕事の電話と取ることもあった。取引先からの電話で、連絡事項のようなものを話し合った後、「最近どう?」という日常的な会話に花を咲かせていた。
電話中の会話が聞こえてきて、申し訳ない気持ちもありつつ、つい聞き耳を立ててしまった。この人は仕事の時、どんな人何だろう。
「あ~そういえば、この前娘さん見たけど大きくなったなあ!何歳になるんだっけ?」
え...今、取引先の人「娘」って言ったよね!?
私は動揺して、電話を切ってしまった。
その後、折り返すように電話をかけてきたが、その電話に私は出ることができなかった。
すると、室内に通知音が響く。
画面には、「聞こえちゃったか」という文面が光っている。
なんて返そうか考えていると、文字を打つ暇を与えず次の通知が鳴る。
「でも、もう別れるつもりで話は進んでいるから大丈夫。」
私にとって彼は、初めて「この人だ」と思えるくらいの存在だった。内気でネガティブな私でも、ポジティブに考えられるような言葉を言ってくれたり、元気がないときにはいきなり歌って笑わせてくれた。とても音痴で、音程を思いっきり外すからつい笑っちゃう。そんな姿も可愛くて愛おしかった。
忙しい人で、あまり会ってはくれないけれど、いっしょにいる時間は本当に大切にしてくれてたくさん「可愛いね」「綺麗だよ」と褒めてくれて、一緒にいると自分のダメだと思うところも、好きでいられた。だから何よりも自然体でいられて安心感を感じられ、私は勝手に彼との将来図を膨らませていた。
絶望でしかなかった。
どうか神様、夢だと、聞き間違えだと、言って。
私の唯一の安らぎの場、唯一の居場所を奪っていかないで。
幸せだった日々が消えていく様子が目頭を熱くした。
「そういうことだから。さよなら。」彼に初めて嘘をついた
何も送れずにいた送信画面には、いつもの癖で謝る文面を打っていた。
「ごめんね、電話切ればよかったね...」
私が、私自身を苦しめたんだ。切っていたら、こんなに苦しい思いをしなくてもよかった。幸せな日々は続いていたはずだった。
でも、せめて「奥さん」とか「彼女」っていうワードだったらまだよかったのになって思ってしまった自分がいて、消えたくなった。
こんなに思ってたの、私だけだったんだ。今までくれた言葉も、態度も、全部嘘?ただの気分転換だったの?私、馬鹿だもんな。こんなことになるなんて、考えたこともなかった。浮かれてたんだな。本当にダメなやつ。
ああ...またいつものネガティブな私だ。
そう思っていると、
お前は悪くない。だから自分は責めないで。お前は、人の気持ちに寄り添えて、共感することができて、傷ついてる人を癒すことができる。俺もお前に出会わなかったら、命を捨ててしまうところだった。家にいても、必死に働いても否定しかされないし、結果を出しても「それで頑張ってるって言えるの?」「もっとこの子のために稼いだら?」ってしか言われなくて。そんな自分は、毎日のようにブランド物やら何やら買ってきてるくせに?また今日も見たことないカバンあったわ。それに怪我をしても、体調が悪くても、結果を認めてほしくて必死に働いた。ボロボロで帰ってきた日になんか、家は暗かった。忙しくて見ることも出来なかった携帯を開いたが連絡は何もなく、電話してみると「ママ友のところに子どもと泊まるから、夜ご飯適当に食べておいて」なんだよ。俺は何のためにこんなに必死に働いてるんだって、もう頑張るのやめようって思った時に出会ったのがお前だった。否定なんかせず、肯定しかしないし、俺のことを考えてくれたり、温かい言葉をくれたり...本当に感謝しかない。悪いのは俺だ。こんなことに巻き込んでしまって悪かった。お前は馬鹿なんかじゃない。すごいやつだ。自信を持て!
と長文が届く。
涙が止まらなかった。こんな時でも、あなたは私のことを気にしてくれるんだね。ネガティブになってたこと、気づいてくれるんだね。
嬉しい気持ちの反面、勝手に別れ話をされているようで腹が立った。こんなに傷つけられて、振り回されたっていうのにさらに振られるってとことんダサい!って開き直って思える自分がいた。
私は彼に初めて嘘をついた。
「私も彼氏いるんだ。お互い様だね。そういうことだから。さよなら。」
その一言で連絡を絶った。彼なら、きっと嘘だって見抜いているような気がして送った後に後悔した。
きっともうあなたに恋はしないだろう
あれから1年が経った。
今頃彼は元気にしているかな。家族とうまくやれてるかな。それとも、言ってた話が本当になって別れているかな。
こんなふうに思うからお人好しだって言われるのかな。
もし別れてたりしたら、私のこと探しちゃったりしてるんじゃないかなって今では笑い話。
もう一度出会っても、きっともうあなたに恋はしないだろう。だってあの頃のようなネガティブな私はもういないから。あなたのおかげで私は強くなれたよ。ありがとう。
あなたみたいなあなたじゃない人にいつか出逢えますように。
あの日聞いた「娘」というワードは、今でも私の心に染み付いている。