私にはやりたいことがある。
でもそれは、成し遂げたいことではなく漠然としている。

漠然とした思いを整理する為に勤めていた会社を退職し、自分のルーツを考えることにした。

私が高校1年の3月のこと。部活の時間に校舎の窓が異様な音を鳴らした。
強い風が当たった音とは違う、ダダダダ…と規格外に揺れ動く音。
女子高生の悲鳴声で恐怖心を一層駆られながら、避難訓練のように校庭へ避難した。

2011年3月11日14:46 東日本大地震。
私は横浜のボロい校舎で大きな揺れを体感した。

一緒になって大笑い。根から明るい叔母さんがすごく心強く感じた

余震も収まってきた頃、家に向かった。
お留守番をしていた愛犬が震ながら私にぴったりと離れない。テレビをつけると、日本が大変なことになっていた。そして、チャンネルを変えると、年末に訪れた父の実家がある気仙沼が火の海となっていた。

同い年の従姉妹や、小学校を卒業したばかりの従兄弟、海沿いの土産屋で働く叔母さん含め誰とも連絡が取れない日々が続き、余震に怯えながら心配で気が狂いそうだった。テレビに映る光景は、3ヵ月前に行ったところとは思えなかった。

親戚の安否確認がやっと出来たのは、数週間後の気仙沼にガスや電気が復旧した時だった。
家族全員無事だった、家は流された、まだ見つかっていない。
様々な状況だったが、誰もが大変に違いないのに、全員第一声が「そっちは大丈夫か」だった。ラジオでしか情報を得ることが出来なった彼らは、都心の大混乱の情報を聞いて心配してくれていたようだ。

地震から2ヶ月ほどが経ち、被災した従姉妹がテレビのドキュメンタリー番組に出演した。一緒に暮らしていたお母さん、足の悪い叔母さん、そして水門を閉めに行った消防士のお父さん達のことを探しながら、涙ながらに「仮設住宅から早く出たい」と言っていた。
同じ頃、同い年の従姉妹のお母さんが私達に電話で「支援物資太りしちゃうわ!」と言った。心配で胸がいっぱいだった私たち家族はその言葉に驚いたが、一緒になって大笑いした。根から明るい叔母さんがすごく心強く感じた。

被災地を見て、卒業後は建築・インテリアに進むことを決めた

余震も落ち着いたその年の夏、私も実際に宮城県へ行き、災害の恐ろしさを目の当たりにした。
逆さになったままの大きな船、山の斜面に突っ込んだままの車、室内がむき出しの家屋。そして、父や従姉妹のお母さんが生まれ育った家はコンクリートの基礎だけになっていた。
ただの女子高生だった私は、家を建て直したいとか災害に強い家を作りたいとかそんな大層なことを思ったわけではない。

「物資太り」という本来存在しないワードのように、「あれはあれで良かったよね」と後から笑うことが出来るような時間の作り方は出来ないのかと当時の私は考えた。
一定期間の住まいである仮設住宅だからこそ、普段なら挑戦できない生活をやってみる期間にはできないかと思った。

実際に被災した方々にとっては不謹慎かもしれないが、自分のマイホームでは躊躇するような壁を1面ピンクにするとか、造作家具を作ってみるとか。
それが、インテリアやDIYだと私の中で答えを出した。
「物資太りしちゃうわ」「仮設住宅から早く出たい」
この時の親戚の言葉と自分の目で見た震災の恐ろしさをキッカケに、私は卒業後の進路を建築・インテリアの道に進むことを決めた。

今より素敵な時間を過ごせるお手伝い。その方法を1から考えよう

これらのエピソードはひとつのキッカケであって、人の時間を“より”良くしたいという信念で進路を決めたことを思い出すことが出来た。
と言うのも、このエッセイを書き始めた時、決まっていた転職先からコロナの影響で採用取消しの連絡が来た。

今の私にとって、「私が働く理由」というテーマはシビアすぎた。
でも、こうして文字にしてみたら自分の原点を思い出すことが出来た。

生きていく上で必要なものは、この世の中にはうんと揃ってる。
ないならないなりに楽しくやっていくし。

だから私は、既に充実している世の中で生きる人たちが、今より素敵な時間を過ごせるお手伝いが出来る方法をまた1から考えようと思う。
私が働く理由は、「誰かの+α」になる為。
それが私の充実だから。