今、我が家の玄関先にある郵便受けがカタンと鳴った。緊張しながらサンダルをつっかけて見に行ったら、区役所から保育園の内定通知書が届いていた。
満面の笑みでヨダレを垂らしながら、よたよたと歩き回る幼い一人娘を他人に預けてまで、そして、時短勤務の給料より高額な保育料を支払ってまで、わたしが働くのはどうしてだろう。
「東日本大震災」の時、慣れない環境で過ごす日々はつらかった
やっと高校生活に慣れてきて進路を考えようにも、なんとなく将来は安定した仕事に就けたらいいなぐらいの考えでぼんやりと過ごしていた平和な日々は、2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災によって全て砕け散った。
自宅は崩壊し、両親は避難所運営の仕事に駆り出され、私はしばらく親戚の家で避難生活することになった。命があっただけ幸運だとは分かっていても、慣れない環境で肩身の狭い思いをしながら過ごす日々はつらかった。度重なる余震で、あちこちから緊急地震速報の警告音が鳴り続け、テレビやラジオからは常に津波の死者数や福島原発の不穏な様子が流れていた。
息を吸っても吐いても苦しくて、目を閉じても耳を閉じても地獄のような空気からは逃れられなかった。
学校は春休みで部活動も塾もなく、なんでも出来るのになんにも出来ない日々。眠れぬ夜を越え朝日が昇ると、わたしは歩いて街へ出た。食料調達を言い訳に、居心地の悪い空間から抜け出して、少しでも気分が晴れやかになることを祈りながら歩き続けた。
昔ながらの商店街に行き、私は優しくて温かい人たちに会った
半壊して茶の間が丸見えの家屋。液状化現象で飛び出たマンホール。テーマパークのような行列で、あちこちから怒号が飛び交うガソリンスタンド。
右を見ても左を見ても異様な光景。これは夢か現実か。目眩を覚えながら、親戚に教えてもらった商店街を目指して重い足を進めた。
いつも食料や日用品は大きなショッピングモールで済んでいたから、昔ながらの商店街という存在は新鮮で、ちょっぴり楽しい気持ちになった。
八百屋を覗くと、優しそうな笑みを浮かべたおばちゃんが「こういう時こそ食べなきゃね!果物は元気の源よ!」とみかんを渡してくれた。
豆腐屋を覗くと、寡黙そうなおじちゃんが「もう悪くなるだけだから」と買った分以上の絹ごし豆腐を渡してくれた。
寿司屋の前を通ると、店頭でパック入りの巻き寿司を販売していた。湿気った海苔や古くなりかけの酢飯の処理のための捨て売りなのか、自分のお小遣いで買えそうなやけに安い値札を見たら無性に食べたくなり、おやつには珍しいチョイスだが100円のかっぱ巻きを1パック買った。
近くの公園でベンチに座り、おまけに入れてもらった温かいお茶を飲んだ。ほっと一息ついたところでパックに手を伸ばす。かっぱ巻きを一口かじった瞬間、海苔の香りがフワッと広がり、わたしの頬に涙がつたった。
温かくて、おいしい。商店街のみんなが、優しくて、温かかった。
人々の「温かい気持ちを無駄にしてはいけない」と使命感のような思い
未曾有の大震災に巻き込まれ、こんなにも苦しい気持ちを味わうのは生まれて初めてだと思っていたけれど、こんなにも温かな気持ちを味わうのも生まれて初めてだった。
この気持ちを無駄にしてはいけない。幸運にも生き残れたわたしは、この温かさを誰かに伝えなければならない。もっと勉強して、もっとたくさんのことをできるようになって、これから先の人生で少しずつでもこの温かな気持ちを伝えなければならない。
そんな使命感のような強い思いが胸の奥から沸き上がり、ベンチから立ち上がったわたしは一歩一歩強く地面を踏みしめながら帰路に就いた。
あの地獄のような日々の中、商店街の人達は皆それぞれ自分の仕事で、仕事以上の温かな気持ちをわたしに与えてくれた。だから今度はわたしが、自分の仕事で温かな気持ちを誰かに与える番だ。
大学卒業後に八百屋でも豆腐屋でも寿司屋でもない一般の会社員になったわたしは、お客様から笑顔や感謝の言葉をいただく度にあの商店街の人達を思い出す。
温かさというバトンをリレーのように繋いでいきたい。それがわたしの、働く理由である。