大学時代、私は好きなものを見つけた。それはカフェで過ごす時間「ティータイム」だ。
私の地元と大学は田舎にあり、有名なチェーン店のカフェは駅まで行かないと無い。その代わり個人経営のお洒落なカフェが何軒かあり、よく友達と行っていた。
体や心が回復するまで時間を頂き、改めて先生になりたいか考えた
お酒は飲める方だ。でも、みんなが酔っていい気分になっているなか冷静なのが辛かったから、人と会う場所としてカフェを選択することが多かった。
旅行に行くときの楽しみも、カフェ巡りだ。素泊まりのゲストハウスに泊まる代わりに、夜カフェや朝カフェで贅沢な「ティータイム」を過ごしていた。
私は、大学入学時にはやりたい仕事が決まっていた。それは小学校の先生だ。
「子どもたち」と過ごす中で、成長を見守れる現場にとても魅力を感じていた。「子どもたち」の成長のために、自分の学んだ知識を活かしたいと考えていた。
2020年の春は、新型コロナウイルスで世間が恐怖に怯えていた。
その年晴れて先生になった私は、理想と現実のギャップに苦しんだ。自分のことで精一杯で、こんなクオリティーの仕事をしても「子どもたち」のためにはならない。私なんかが先生をしていて意味があるのだろうか。
家より長い時間を学校で過ごし、家でも休みの日だって必死に働いた。でも、そんな毎日に心と体が限界を迎え、私は鬱になった。すぐには仕事の事なんて考えられなかったので時間を頂き、改めて先生に戻りたいか考えた。
そして、転職を選んだ。先生以外の仕事を知らなかったので、転職活動では様々な業種の面接に行ってみた。働いてみないと分からなかった「残業なし」や「土日祝休み」などの自分に必要な条件のもと、仕事を探した。
先生みたいに「やりたい」仕事とは言えないけれど、「やってみたい」仕事が見つかった。「子どもたち」と直接関わる仕事ではないけれど、大学で学んだ知識を活かせる仕事だ。
転職してしばらく経ち、「何のために働くのか」を考える時間ができた
転職してしばらく経ち、「何のために働くのか」を考える時間ができた。
思い返せば、先生になりたかった理由には全て「子どもたち」のためという言葉が付いていた。
その結果、私は自己犠牲を省みず仕事をし、鬱になってしまったのだと思った。
これまで私は、人の幸せが自分の幸せだと思って生きてきた。その一方で、23年間生きていれば、自分勝手で自分が一番可愛いと思っている人に出会う機会もあった。
自分勝手という言葉は人聞きが悪くダメなことだと思っていた。でも今は、自分勝手は生きる上である程度必要な一面だと思える。
だから、これからの人生で大部分を占める仕事では、まずは「自分」のために働きたい。
次に、私自身が「何を大切にしているか」について考えた。
「人間関係」「気配り」そんな言葉を思い浮かべたけれど、そんなの誰だって大切にしている。客観的に、私が何を大切にしているように映っているのかを彼に聞いてみた。
そっか、私ってカフェでの「ティータイム」が好きだった
私:「私って、生きる上で何を大切にしてると思う?」
彼:「ティータイム(コーヒーの絵文字)」
彼からの返答に、口元が緩んだ。
そして一番私のことを見てくれている人の意見は、とっても的を射ていた。
そっか、私ってカフェでの「ティータイム」が好きだった。
コロナの影響でカフェで過ごす機会は減ったけれど、月曜日は有名なチェーン店の飲み物と一緒に出勤するし、お家でも常時三種類以上のホットドリンクが飲めるようにしている。
カフェのくれる幸せなひと時「ティータイム」は、私の人生に寄り添っている。
先生になった私は「子どもたち」のために働いていた。
これからの私は「自分」のため=「ティータイム」のために働く。