強気な女と言った本人はきっと私が泣いていることを知らない
大学院でちょっとしたセクハラを受けた。文学を専攻しているので作品には性的表現も登場するのだが、なぜかその度に「どう思う?」と私だけに質問が振られて、周りの男たちは笑った。しかも女子学生には学術的な質問を振られることが、なぜか少なかった。
飲み会に行けば大体女は私一人で、お酒が入った人たちがエッチなことを言って私の反応を見て楽しむようなこともあった。そのうち笑っていた人の中から「ちょっとヤバい域じゃない?」という人も出て来るほどだった。
ただ、院進して男だけの飲み会にも来るような私は、期待に応えられる面白い反応をするような女ではなく、「面倒だから男でも女でもない存在になりたい」という願望を抱いたショートヘアにパンツスタイルの女である。さっさと大学のハラスメント相談室に行ってどうにかした。
揉め事を茶化したがる先輩が、私は静かだがこんなことにも怒る意外と強気な女であると噂したらしい。だが院進直前の私が「女性は子育てがあるから研究者には向かないし、自分の娘なら絶対に行かせないのに」と笑われたことや、相談室で泣きたくもないのに涙が出たことはほとんど誰も知らない。
私が思う、社会が「大きな問題」として捉えてこなかったこと
ちょうどその年、東京大学で上野千鶴子氏による入学式の祝辞があった。表面だけ掬い取れば東京大学で学ぶ価値を伝えようとするものであったが、その中に「東大女子」と名乗ろうとしない人達や、そもそも「東京大学に行くなんて、お嫁に行けなくなる」というプレッシャーの中、あきらめる人達のことが語られた。「女の子は大学に行っても幸せになれない」と語ってくれる、とても親切な近所の人の話など、私も高学歴女子の端くれなので似たようなことは思い当たる。
簡単に変わる世の中じゃないにしろ、この話題をメディアが取り上げ、多くの人の話題に上がったのが私はうれしかった。
だが一番仲のいい友人の男子は、祝辞の話をすると居心地悪そうにする。私のセクハラ経験についてもそうだ。
彼の考えとしては、女性に対し、恥ずかしがらせるようなことを言うとか、男より弱い女であることを願う発言も、あまり良くはないだろうが、男性からのコミュニケーションの一種ではないかということである。
そしてそこに彼は「それが差別だとかいうのを表で言える環境になっただけ、前よりいいんじゃないかな」と付け加える。
でもそういうこと、ずっと前から女たちは言ってきたような気がする。日本史や世界史でも、女性の地位向上運動が取り上げられるではないか。それを社会はそれほど大きな問題として捉えてこなかったのである。
男でも女でもないと言い続ける私を、社会ごと変えていきたい
私だってその中で、女子だからとどうこう言われるのなんか変えてしまいたいと思っている。ただ、「強い女性」になりたいわけじゃない。女性代表として権利を勝ち取ろうなんて大層な人間じゃない。「女性である」ということがもたらすものであるか否かを問わず、自分の身の周りに嫌なことがあるなら変えたいと思っているだけなのだ。
しかしあまりに私の身近には、女であることによる面倒くさいことが転がり過ぎている。それで私は「男でも女でもない存在でありたい」と思うようになった。誰かと話す時、男女の差は一度脇に置いてくれと頼んだ方が今のところ楽なのだ。
だが正直この方法は逃げだ。私は身体や心の女性性を受け入れたいのに、社会的には女性として見ないでくれと振舞っている。それでも続けるのは、私と出会った人が「なんだこいつ」と思いつつ、他者の捉え方を変えてくれると信じているからである。
いつか私はこの社会を自分と出会う人から変えていき、そして「男でも女でもない」と言い続ける私を変えたい。ありのままに。