今年2月末、私は昨年新卒で入社したばかりの会社を辞めた。
退職の大きな原因は直属の上司と相性が合わなかったことなのだが、相談をしたり退社の話し合いを進めるうちに会社全体への不満が湧き上がった。
それは「見せかけの男女平等」に対する不満だ。
勤めていたのは社員150人程度の大きくはない会社だったため、80代の社長・副社長の意向が反映されやすい環境だった。社員全員が顔見知りというアットホームな雰囲気と女性社員の多さに惹かれて入社してみると、実際に新入社員の男女比は5:5。本社、倉庫、工場へ配属された男女の数もほぼ同数であった。研修中も同じ営業部に配属された男子よりも私の方が褒められる機会が多く、能力を評価してもらえていると喜びを感じていた。
会社に慣れ始めた頃、リーダー層の男女のおかしなバランスに気付いた
初めて会社に対する違和感を覚えたのは、入社して2ヶ月ほど経った頃。先輩社員の名前や肩書がわかるようになり、課長、部長、チームリーダーといった責任ある立場に女性が少ないのではないかと感じ始めた。おかしいなと思っていた矢先、数少ない女性リーダーたちが束ねているのは「女性だけ」のチームであるというさらに不可思議な事実に気がついてしまった。
言わずもがな男性リーダーのチームには男性社員、女性社員どちらも入っている。
直接言われた訳ではなくても、この会社では女は男の上には立てないのだという隠されたメッセージが、少しずつ私の心を蝕むようになっていった。
会社に決定的に失望したのは、今年1月に社長・副社長と3人で面談をした時。この時はまだ退社を考えておらず、ただ直属の上司と相性が合わないと相談をする形だった。
「あの人も悪気があってやってる訳じゃないから」等々お決まりの言葉をかけられ、社長からその上司に注意をしてくれるとのことで少し安心したのも束の間、副社長の口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「男性はいつまでも子どもな部分があるから、そこを女性が支えてあげなきゃね」
2021年にそんなことを言う人がまだ存在したのかという驚きとともに、私が感じてきた違和感の正体がわかったような気がした。
女性を利用して、男女平等を達成しているかのように見せかけている状況を変えたい
世の中には、いわゆる「女性らしい」生き方が苦にならない女性もいる。他の社員の仕事をサポートすることや、結婚・育児に憧れるのは何ら悪いことではない。演劇部に所属していたときに、ステージを成功させるには演者と裏方が協力しなければならないことも学んだし、教職課程を履修して子どもを育てることの難しさと尊さも知った。
私が変えたいのは、彼女らを利用して、会社がいかにも男女平等を達成しているかのように見せかけている点なのである。
このような例はSNSでもよく見られる。
女性が性別を理由に苦労した経験を語ると、「私はそんな思いをしたことありません」「自分の母親(妻・彼女・友人)はそんな苦労をしたことはないと言ってますよ」といった反応が返ってくるのだ。
例えば病気で苦しんでいる人に対して「私もその病気でしたがそんなに辛い思いはしませんでした」「自分の友人もその病気でしたが全然辛そうではありませんでした」と言っている人がいたらどうだろう。他者を思いやる気持ちがない、と批判される可能性が高いはずである。しかし、女性差別問題について議論する際には、なぜかこの理論が正当化されてしまい、改善を求める女性たちがまるで我儘であるかのように扱われる。
重要なのは、世間から求められる「女性らしさ」に難なく適応できているように見える人々は、別に「女性らしく」生きたいと思っているのではなく、「ただ自分らしく生きている」だけだと理解することではないだろうか。
専業主婦になりたい、裏方としてチームを支えたい、表に立ってどんどん仕事を獲得したい。どの選択がダメな訳でも、偉い訳でもない。
私が夢見るのは「自分ができるから」「知人はできているから」といった言葉は何の効力も持たない、と多くの人が知っている社会である。そこではきっとフェミニストは、必要以上に自分たちの要求を通そうとする我儘者ではなく、自分らしい人生を歩みたいと願っている一人ひとりの人間として認められているだろう。