他人が言う「この子ちょっと変わっているけど面白くてとっても良い子だよ」という言葉は信用してはいけない。私は何度、飲み会でこう紹介されただろうか。
まず大前提として、私は"変わっている"人間なのか?変わっているという基準は一体何なのか。
人間誰だって生きていれば、他人と違う言動や思考があるのは当たり前だ。
それが多いか少ないか。隠しているかいないか。ただそれだけのこと。
そして、“面白い”の表現も曖昧だ。お笑い芸人のように漫才やコントをやるわけでもない私に使う“面白い”とは、私の何を指しているのだろう。
“変わっている”と“面白い”という爆弾を『とっても良い子』という褒め言葉で起動させ、爆発させる気なのだ。
勝手な他己紹介。趣味で性格を決めつけられてしまう気持ちになる
私はこの他者紹介で、ある程度自分の見え方が決められたような気持ちになる。
そしてその後待ち構えている自己紹介の場では、周囲からの期待を感じる。面白い一発芸や趣味を披露する舞台に強制的にあげられてしまうのだ。
普通の人間が一発芸をわざわざ用意する事などまずないし、他人様に話して盛り上がるような面白い趣味は持ち合わせていない。
そもそも趣味なんぞ、1人でこそこそ楽しんで1人で盛り上がっていればいい。誰かに披露してお勧めするなんて愚問だ。ことあるごとに趣味を聞いて、その人の性格を判断する材料にするのはいい加減やめた方がいい慣習だ。
例えば、旅行が趣味なら明るい性格なのかなぁとか、アニメが好きならインドアなのかなぁとか。一番酷いのは、料理が好きと言うと自動的に家事全般が得意という印象に仕上がる事だ。何がどうなってそうなるのか私には全く理解ができないが、大抵、料理が好きと言うと、部屋も綺麗にしてそうとなる。料理が好きとは言ったけど、掃除が好きとは一言も言ってない。なんなら私は汚い部屋で美味しい料理を食べている。
確かに趣味は性格に影響があるという統計結果はあると思う。あると思うが、あくまでも統計上の話で割合の話。対面で話している私に、統計上の結果を当てはめて、結果外だったら変わっている人と認定するなんて酷い話だ。
学生時代に一人だけ自分の描いた地図を褒めてくれる子がいた
私は小さい頃から多数決をしても多い側にまわれないような子供だった。いつも少ない方。本音を言うと少数派の意見でもない。用意された選択肢に私が賛成できるものはいつもない。だから仕方なしに少数派にまわる。これはささやかな抵抗だった。
そうこうして大人になると世論と自論を分けて考えるようになり、基本的には世論に忠実に生きている。稀に自分の考えを聞かれた時に初めて自論を話す。その時、私の自論は意見となり世に飛び出すのだ。大抵の人間が世論と自論を使い分けて上手く生きているのであろう。
「少し変わっているけど面白くて良い子だよ」の紹介文には私の世論をわきまえている部分が滑落している。許しがたい。私にとってこの言葉、レッテルを張るための罠としか思えない。変かどうか、面白いかどうかは人それぞれ、自身が決めればいいのだ。印象操作されてたまるものか。
学生の頃、授業で駅から学校までの地図を書く授業があった。特別な指示はなく、ただ地図を書くというもの。
30人中29人が北が上の地図を書いた。北が上。きっとそれが常識で世論なのであろう。
私だけが目的地を上とした地図を書いた。私1人だけ。
方向音痴の私は、北が上だとかそんなものはよくわからない。ただ目的地を上に書き、真っ直ぐ前に進めば良いだけの地図。自分1人だけ違う事に恥ずかしい気持ちだったのを覚えている。
でも授業の後、たった1人だけ私を褒めてくれた。その人は自分も方向音痴だからこの地図だったら読めると言ってくれた。
その時私は思ったのだ。1人だけ違う私を良いと言ってくれる人がいる。全員に理解してもらえなくてもたった1人にわかってもらえる。世の中にはそういう瞬間が用意されているのだと。それだけで勇気が出るのだ。自信になるのだ。
協調性を持つことは大事だけど、時には惑わされることなく自分を出しても良い
私たちは集団生活をする上で協調性というものを求められる。とても大事な事だ。周りと協力したり調和を保つ為に試行錯誤して生きていく。
でも、時には自分を出してみてもいいのだ。誰からの紹介文に惑わされる事なく、自分の言葉で自分を表現するのだ。
きっと伝わる人には伝わる。1人が理解して評価してくれればいいじゃないか。
印象操作や同調圧力に負けるな。
見せ方も、見せられ方も、全部全部自分で決めていいんだ!