生きづらい世界に対して、共に、共犯者になってくれないか。
私一人ではもう駄目なのだ。
人と関わることからずっと逃げてきた。
それでは問題は解決しない。
私は腹を括り、伝え方を変えようと思う。
共犯(手話)者となってほしい。
この音声ばかり溢れる世界で、あなたに助けてほしいのだ
あなたに、助けてほしいのだ。
当たり前に、言葉を通じ合える。
通じ合えたその人がいる世界を、その人を通して、愛するために。
私には、“手話”を話せる人が必要だ。
何故かというと、私はろう者だから。
だからと言ってそんな都合のいい話は、勝手すぎて、とんだお笑い草だろうと思う。
人はズルい生き物で、“もし~してくれたら、私はあなたを愛する”という条件付きの愛でしか、その人を愛せない。
そんな都合のいい話、勝手すぎる。
だがろう者にとって、この音声ばかり溢れる世界は優しくない。一つも、優しくない。
それで情報が乏しいまま、経験不足なまま、年齢に合った大人の振る舞いを求められるし、能力も求められる。
教えて貰える機会もないまま。
こんな理不尽な話あるか?
それがある。
音のないまま育った背景があり、音声や筆談で間に合わない問題がある
何故かというと、人は見かけで判断するからだ。
ろう者というものは、見た目は聴者とそんなに変わらない。だから、聴者と同じようにできるんでないかと勘違いが起きる。
が、人によって、音のないまま育った背景がやっぱりあって、音声で間に合わないところは筆談で間に合うとか、それだけじゃ済まない問題がある。
例えば、色々な要因で、私は集団に溶け込めず、とうとう中学から不登校、高校中退し、社会経験が乏しいまま育った。
そんな状態で社会に入ろうとしたら、やっぱり理解のない人の言葉に傷ついた。
“人から助けて貰ってるばかりで、それに甘えて、自分から何かをしようとはしなかったんでしょ”と度々言われた。
てか。与えてくれる機会のないまま、どないせっちゅうという話だ。
確かに30近くになって、責任感をさほど持たずに生きてきたと思う。事情を知らない人から見れば、クレームは来るし、偏見も持たれる。
人との間に、音声があって、けど機能上、伝わらず大人になった私は、さすがに、自分でも経験の無さをどうかと思う。
生きづら。
けど、自分だけ生きづらいんじゃなくて、聴者も生きづらいのだ。
人生の途中で若くして死んでしまった人もいた。背景を知るともう辛かった。
なら人と関わらず生きたらいい。
でも人と関わらず数年間生きたら、精神病を発症した。どないせよっていう。
手話で、同じ言語で、わかる形で、認容してくれたあの日を忘れない
仕方あるまいと、それから2年くらい生きたら、共感と理解してくれる人が現れた。
その人は、手話が実に堪能だった。十代始めから手話を獲得した私よりずっと。
また、ろう者が取り巻く障壁をよく把握して、“生きづらいのは当たり前だよ”と、承認してくれた上に、”可哀想で不幸だと思う”と、手話で、同じ言語で、わかる形で、認容してくれたあの日を絶対忘れないと思う。
やはり、私には手話が必要なのだ。
自分の言葉を即座に、表せる。そして、
“わかるよ、わかる、すごくわかる”
と、通じ合ったあの感覚も。
人が人として心地よく生きていくには、人と関わって、共同製作を果たすこと。
それで、社会が成立する。
ずるい願いだが、共犯者がほしい。
わたしが、手話という言葉を持つだけで、救われた事実があるから。
だから伝えたい。
もし、あなたが、手話を覚えて、深め、手話で、ろう者へ伝えてくれたら、長い人生を生きる光と、灯火となる。生きる道標となる。余裕があれば、あなたの生きてきた軌跡を、手話へ言葉へ転換し、ろうの私たちに伝えてほしい。本で得られない生の感情を教えてほしい。
そうして、その時、生きづらい世界に対しての、反逆になり、かつてない喜びに満ちる。