あと一日、たったの一日だ。その日を境に私の息は、どれほどしやすくなるのだろう。できるなら今すぐにでも30歳になりたい。困惑の20代からやっと卒業する瞬間を私はずっと心待ちにしている。
「30歳になったら生きやすいよ」
 そう聞いたのは社会に出て数年経った26、27歳の頃だ。

仕事も、家族も、プライベートでも気が休まらなかった26、27歳の頃

 昔から算数は苦手なのに、当時の私は仕事で気の遠くなる桁数の数字を扱っていた。業務引継ぎの資料をひっくり返し、前任者に対して煮え滾る殺意を、どうにか宥めすかしながら生活していたと思う。年功序列制度の負の遺産みたいな二回り上の先輩に、CSVファイルの開き方を教えては(これは10回を超えたところで数えるのを止めた)、頭痛と生理痛に唸っていた。
 仕事だけではない。実家では高齢な祖母の足腰が日に日に弱り、一人では用を足せなくなった。なにしろ耳が遠いから、つい、家族は大声で叫んでしまうのだけれど、叫べば叫ぶほど聞き取りづらくなるジレンマで父はほとほと疲れていたし、私はそのやり取りを仕事帰りの(時にエナジードリンクで半ばドーピング状態の)心身に浴びせられて正直辟易としていた。一刻も早くここから出たいと思った。

 プライベートの都合も私を追い詰めていた。
 私には追いかけているバンドがあって、ライブがあれば東京や横浜の大きなホールへ遠征する。当時住んでいた私の地元は、首都圏へ行くのにちょっとつらい土地で、日曜の夜に都内のライブへ行くと月曜の出勤に間に合わない。何物にも代えがたい推しの活躍だとしても、交通費と宿泊費と月曜分の有休を毎回支払う生活は、私の心身を少しずつ蝕んでいた。
 自分以外の同世代の友人たちも、それぞれに仕事や家庭の悩みが重なっていた。余裕のない者同士が息抜きに顔を突き合わせても、カフェの一角へぎすぎすとした空気を振り撒き、評判のチョコレートケーキは歯に付くばかりで味がしない。
 項目を細かく上げ始めればキリがないほど、辛さが生活の端から端まで散りばめられていて、結局何が原因で息苦しいのか分からなくなっていた。

30歳のラインの先に別の世界があるならば一刻も早くそこへ行きたかった

 私は「生きづらいなあ」とこぼしたと思う。
 大学時代からの知り合い数名と、先輩の車に乗り込んでドライブをした帰りと記憶している。方向音痴の私は夜中の後部座席に沈んで、自分がどの道路にいるのかさっぱり分からなくなっていて、速度とルールだけはあるのに目的の分からない、まるで人生みたいな暗夜を漂っていた。
「30歳になったら生きやすいよ」
 3歳年上の、一足早く大台に乗った先輩がぽそりと漏らした。
 私はそれに驚いたのでもなく、ショックを受けたのでもなく、ただただすごく「羨ましいなあ」と思った。早くこの生きづらさから解放されたくって仕方なかった。30歳で踏み越えるラインの向こうに別の世界があって、空気の濃度が変わるのなら一刻も早くそこへ行きたかった。
 先輩は先輩でやっぱり20代の生きづらさを抱えた頃があったはずだ。わずかだけれど様子を知っている。だからこそ、そんな先輩が生きやすくなったというのだから、それは本当なんだと思えた。
 あと3年か4年か。数年間が私には途方もなく感じられて、夜道の街灯が視界の中でぼやけた。先輩はそれ以上を語らなかった。

奇しくも30歳を迎えようかという今年、不思議と生きやすくなっている

 いま、夢にまで見た30代へあと一歩のところまで来ている。
 もうすぐ終わろうという20代は、右往左往の毎日だったなあ、と振り返って思う。
 この4年で祖母は施設への入居が決まった、あと少し入居が遅かったら家族がどうなっていたか分からない。3年前に私は一度実家を出たが、上司のやり方にほとほと愛想を尽かして会社を辞め、1年前には地元からも飛び出してしまった。いまは気心の知れた友人知人の多い町で暮らし、社会情勢からなかなか推しに会いには行けないけれど、数字の桁数のずっと少ない仕事に就いている。生理痛は病院に通ってだいぶ改善された。
 ただじっと待っていても解決しなかったろうけれど、奇しくも30歳を迎えようかという今年、不思議と生きやすくなっている。

 まもなく私は『かがみよかがみ』に投稿できない年齢になる。本当は20代のうちに生きやすさを享受したかったし、生きづらさが世の中のせいだっていうなら、世の中をどうにかできたらよかった。何も変えられないままで、いま20代を卒業していくことを、辞めてきた会社の同期へうしろめたいのと同じように、かがみすとの皆様にも少し申し訳なく思うけれど。
 せめて私の後に30歳になる人が、30歳になる日を怖く思わないような、楽しみに年を重ねていけるような30代を、明日から始めてみたいと思う。
 こんにちは、30歳の私。20代だった私をここから守ろう。