私が変えたいと思うのは、周囲の人達の言葉選びについてだ。
私には前々から少々気になったことがある。他人からの「変わっている」という評価のことだ。

それで笑ってもらえるなら、ネタにしてもいいと思っていた

先日、かつての恩師に会った際に、以前会ってからの二年間の間に何があったのかについて話をした。それを聞いた上での恩師からの発言の中に、今の私には少々引っかかる言葉があった。
「あなたは昔から変わっているから、あなたなら何があっても受け入れられるし、まぁ、あなただもんねって思う」と言われたのだ。
確かに私は自分でも変わっている点があると思っている。しかし、他人を評価する際に「変わっている」 「変わっているから」、その言葉で相手のことを決めつけてしまうのは少々暴力的すぎやしないだろうか。

私はいつも、これは10歳頃から今現在20歳になるまで本当に多種多様なところで出会った様々な人から、元気で明るくて、タフで、ちょっと変わってる人という評価を受ける。
言葉は違っても、ほぼ毎回同じような意味のことを言われるので、私はきっとそういう人なんだな、と次第に思うようになった。

それ以来、私は自虐やネタ、場を盛り上げるような時に、「私変わってるからさあ、〇〇なんだよねえ。」のようなニュアンスで「変わっている」という言葉を使うようになったし、周囲にもそれで笑ってもらえるならネタにしてもいいと思っていた。

どちらかと言えば自信がなく、自己肯定感が高いタイプではない

しかし、最近他人からの評価として「変わってるよね」という言葉は、私の心にチクリと刺さるようになってきた。
私は変わっていると言われることを、あまりよく思わなくなった。
それが私の元々の持っているADHDやASDのような発達障害的な部分に由来しているようなものだったり、自分の人生に関わる価値観、アイデンティティに由来しているものが多いと気がついたからだ。その他人のいう「変わっている」を受け入れてしまうと自分自身を拒否拒絶して、益々嫌いになりこれ以上自己肯定感を下げる、と気がついたからだ。

私は元々自己肯定感が高いタイプの人間ではなく、どちらかと言えば自分に自信がない。自分の周りの友達を友達として置いておくためにはどこか身を削ってでも自分を面白がってもらう必要があると、自分をキャラ化する必要があるのだと信じていたし、そうやって、たとえ自尊心を犠牲にしたとしても、友達の輪に入って楽しくやっているのは自分を認められたような気がしていた。
そのような関係性の前では、自分の本心や思っていることを、どこか隠しているところがあった。自分のことをネタにしているとはいえ、決して本当の深いところを曝け出せずにいたし、どこかで引かれるんじゃないか、と怖がっている自分もいた。

なるべくポジティブで、相手を大切にする言葉選びができたら

しかし半年間の闘病生活や浪人の間、そのような人間関係の人たちと距離を置くこととなり、代わりに本当に深いところまで曝け出せる少数精鋭の友達だけが私の周りに残った。
その子たちとはお互いの手の内を全て曝け出して、会ったり電話をしても互いの相談に対して「あなたはあの時あれで失敗してたから、次はこうしてみたら?」といったお互いを知り尽くしているからこそ出てくる討論のような会話と過去の傾向と対策をしっかりして、次に繋げられるような人生について深い話ができるようになった。

そこでわざわざ自分を傷つけてまで作るような人間関係はいらないのだ、と気付かせてくれた。

今回は恩師からの「変わっている」という言葉に少々疑問を持ったが、その人とは人間関係、信頼関係が出来ているからその言葉がどんなニュアンスでその人が使っているかを理解した上で受け取れたため、人間関係が壊れることはなかった。
これがあまり知らない人同士の会話だったら……想像すると、ちょっとゾッとしてしまう。他人に対して「変わっている」言葉は軽率に口にすべきではないし、私も無意識に使っていないだろうか、と今回考え直すきっかけにもなった。

これからは「変わってるね」ではなく、人の個性的なところを褒めるときに使う言葉には相手が気にしていたりするかもしれないから、「あなたのそういうところ素敵だね」といったなるべくポジティブで相手を大切にする言葉選びをしていくことができたら、お互いにより良い人間関係を築いていけるのではないだろうか。