もっと環境にやさしい選択をしやすい社会にならないかなぁ。私は日常生活でこんな風に感じる場面が多い。
例えば、スーパーのきれいに個包装された野菜たち。家に帰って調理する時には全部外されてゴミになるのに。海外のスーパーで野菜が包装なしで山積みにされているのを見て羨ましかった。
他にもコンビニやカフェ、レストランなどでおしぼりやストローをサービスしてくれるのも、ありがたいと思うと同時に、正直なくてもいいなと思うことが多い。

完璧な「サービス」はおもてなしと気遣いの心。でも、もっとシンプルで良いのでは?

ここまでの完璧な「サービス」は日本の象徴だと感じる。あえてプラスに捉えるなら、相手へのおもてなしと気遣いの心が表れているととれるだろう。
でも、それって本当に必要?

その「サービス」のために余分な資源が使われて、ゴミが増えて環境汚染・破壊につながって、回りまわって迷惑を被るのは私たち自身ではないだろうか?
それって本当の思いやりだろうか?
目先の利便性に気を取られて、長期的に見た不利益を考えていないようにしか思えないのだが。

もちろん、さまざまな理由で「サービス」が必要な人もいるだろう。選択は個人の自由だ。でもデフォルトはもっとシンプルで良いのではないだろうか?
野菜は山積みにして、必要な人だけが袋に詰めれば良いし、おしぼりやストローも必要な人だけが店員さんにお願いしてもらうようにすれば良い。

耐え切れなくて悲鳴をあげる地球。異常気象や災害を見ればわかるだろう

そんな些細なことを環境問題に結び付けて何の意味があるんだ。環境問題に取り組むなんて意識高すぎかよ。そんな目で見られることもある。
でもそんな時いつも思う。
いや、そんなこと言うあなたが意識低すぎでしょ!!!

近年の異常気象や災害を見ればわかるだろう。人間はこれまで散々地球に負荷をかけてきたけど、地球がもう耐え切れなくて悲鳴をあげているんだ。
私の実家はど田舎で、高校生の頃はまだギリギリ夏場も扇風機だけで過ごせていたけど、もう今はそれだけでは猛暑を乗り切れない。私が生きてきた数十年の間だけでもこんなにも環境が変わってしまっている。

このままだと地球が終わるのは目に見えている。「ま、そうなっても人類の自業自得かな」と思ってしまう自分もいる。でもそれってすごく無責任だ。

自分たちだけ利便性を追求して好き勝手に生きて、これから生きるはずの子供たちに負の遺産を押し付ける。このままだと、これから生まれてくる子供たちは、私が子供の時したように自由に外で遊べなくなるかもしれない。今までになかった病気で苦しむかもしれない。美しい自然に出会うことがないかもしれない。

そんなの理不尽すぎる。あまりにも自分勝手で思いやりがなさすぎる。私がもしそんな仕打ちを受けたら、絶対にそんな地球を残した先人たちを恨むだろう。

自分が環境問題に対してできることを一つ一つ。塵も積もれば山となる

だから私は、自分自身の行動がどれだけ環境に負荷を与えるのかという意識を持ち、環境問題に対して自分ができることを一つ一つやっていく。どんな小さなことでも、誰に何と言われようとも。
そして、その輪をちょっとずつ自分の周りにも広げていきたいと思っている。
塵も積もれば山となる。その言葉を信じて。

そして願わくば、社会システム全体が環境にやさしい選択をしやすいように変わっていってほしい。もっとシンプルに、「サービス」は特別なときだけで良い。

私たちが思いっきり人生を楽しんで、これから生まれてくる全ての人たちも同じように思いっきり人生を楽しめる場所を残すために。