「『為に』の奴隷」先日、何気なく観ていた教育関係ドラマの中で出てきた台詞の一つだ。それから数週間が経過している今も、この台詞が忘れられない。

周りの女子より目立たず、且つ流行りには乗り遅れないようにしていた

私自身も教育関係の仕事に就いているからか、はたまた別に思うところがあるからか、この台詞がひっそりと追いかけてくるのだ。それとも、「為に」という言葉を免罪符にして、これまでの私の人生の数々の選択や経験は、家族や友達、同僚、そして私の為に間違っていなかった、とでも言いたいのだろうか。

ふと振り返ってみる。これまで私が経験してきた事を。幼い頃から内弁慶で心配症だった私は、学校が大嫌いだった。自分がどうしたいかより、いかに周りが何を求めているか頭の中で、自問自答を繰り返してしまうので、未熟な者同士が集まり形成する人間関係に気持ちはずっと辟易していた。さながらサバンナにいるシマウマのように。周りの女子より目立たずに、且つ流行りには乗り遅れないように。

それでも、個性があるという意味で「変わってるよなあ」とキャラ付けされたら、それを受け入れる。周りがダイエットやら恋愛やら、自分磨きを始めたら、私も自分を磨く。そんな矛盾や暗黙の了解に満ちた学校を、早く卒業したくてたまらなかった。大人になったら自由になれるのだ、そんな確証のない希望を抱いていた。

私は周りを真似て「自分もその一部」なんだと言い聞かせていた

怒涛の思春期を抜けて大学生の頃になると、少し生きやすくなった気もする。量産型されたような女子がいる傍ら、自分らしさを持っていてブレない子に安堵した。

私は、どっちだったのだろう。通っていた大学は、憧れていた都市部のようなキャンパスではなく、高校の延長線みたいな小さな田舎の大学。思い描いたキャンパスライフではないけれど、充実していると言い聞かせた。周りにもそう思われたいという気持ちが、ずっとあったように思う。

それを象徴するかのように、軽音楽サークルでエレキベースを始め、友達と朝方まで遊び、好きな人とイルミネーションに行った帰りにフラれ、メイクやお洒落を練習し、年中ダイエットと付き合い、採用試験の勉強に明け暮れた。とにかく楽しそうにしている周りが羨ましかった私は、真似てみる事で「自分もその一部なのだ」と言いたかったのだろう。そんな生き方しか、出来なくなっていた。

周りに合わせることでいつしか「自分磨きの奴隷」になっていたのだ

そのまま社会人になった。こんな生き方を「向上心がある」と勘違いしていた私は、そこが自己アピールポイントだと思っていた。本音は職場の同僚との関係を築く為のくせに、「無駄な経験なんて人生にはない」と建前を並べ、同僚との話題作りに勤しんだ。

本当は長距離走が苦手なくせにマラソン大会に出たり、興味がないのにボルダリングや登山をしたり、「マラソン完走したい」と言いながらも体重が増える恐怖に怯えてジム通いをした。また、行きたくないのに居場所を求める一心で飲み会に行き、弱いくせにお酒を飲んだり、言いたくない愚痴も言ったりして、いつしか私は「『為に』の奴隷」に、そして「『自分磨き』の奴隷」になっていたのだ。

無理をすれば、いつかは壊れる。心と身体の悲鳴に気が付かなかった奴隷の私は、休職を余儀なくされた。ランナーズハイのままでは、人生のマラソンは走れなかった。

自分と向き合う日々が続いて、もう一年になろうとしている。これまで私がしてきた事は、全て正しい事も間違っている事もないのだろう。ただ、奴隷と化す手前で気が付けば良かったと思う。

しかし、向き合い続けて分かった事もたくさんある。やる事なす事全てに、理由なんていらない。今日食べたチョコが美味しかった、散歩中につくしを見つけた、そんな私の目の前に広がる日常を隣にいる人達と分かち合う、そんな時間もあっても良いのだと。

さようなら。奴隷だった私。