私は家族から、「プーちゃん」と呼ばれている。小さい頃は「ピーちゃん」だった。下の名前が「ヒカリ」なのと、とにかく泣き虫でよくピーピー泣いていたことが由来らしい。
5つ年下の弟が生まれ、話し始めたころ、私は「ピーちゃん」から「プーちゃん」になった。まだ舌足らずな弟が「ピ」を「プ」としか言えなくて、それがそのまま家族にも浸透し、あれよあれよと時が過ぎたアラサーになった今でも、家族は私を「プーちゃん」と呼ぶ。

何となく「チェリー」ぽく自分のキャラを寄せていた

私の見せ方、は何となくだけど、相手が自分のことを何と呼んでいるかで無意識に切り替わる気がしている。そのことを自覚したのは、18歳の時だった。
上京して大学に進学した私は、先輩に誘われて、学部の生徒会のようなサークルに所属することになった。先輩に連れられて初めてその部室を訪れた時、自己紹介をするやいなや初対面の3年生に、本名とは何の関連もない「チェリー」というあだ名をつけられた。
この場だけのノリだと思って特に否定せずにいたら、あだ名は異様な速さで浸透してしまいその後の大学生活もずっと、私はその部室にいる時間と、その団体の人たちにだけ「チェリー」と呼ばれることになる。

後からよく考えたら、どういう意味合いでつけたのか尋ねたいあだ名である。
女性経験のない男性を俗語で「チェリーボーイ」と呼ぶことも知っていた。「チェリー」というあだ名が私の「処女っぽさ」をいじって付けられたものなのか、そこまで考えずに何となくの雰囲気で呼んでみただけなのか。その疑問をしっかり持つ頃にはあだ名を付けた当人は卒業してしまっていたので、聞く術はない。聞く術あっても、「私処女っぽかったですか?」なんて多分聞けないけど。

しかし確かに当時処女だったので、本来の意味通りだったとしても中身に即したあだ名があてがわれたのには間違いないゆえに、私は何となく「チェリー」ぽく自分のキャラを寄せていた節がある。
「恋愛経験が少ない」「男友達が少ない」「下ネタが苦手」な感じをわざわざ装っていたのだ。その場にいるときはその方が楽だったのもあるし癖になってしまったのもあるし、実際自分にそういう一面があることも事実だったから。

どれも本当の私自身なのに、どれも私ではないような

「ひかりん」と呼んでくれる人たちの前では自分が「ひかりん」ぽくなる気がするし、「よっしー」と呼ばれる時には「よっしー」ぽくなる気がするし、家族の前では「プーちゃん」ぽく振舞っている自分がいる気がする。
好きな人から苗字で呼ばれていたのが時と場合によって下の名前で呼び捨てにされるようになると、私はやはり「吉岡さん」ぽい時と「ひかり」ぽい時があると思う。
それは装っているわけではなくて、相手が自分をどう見ているか、に合わせて、自分のどこを見せるのかを変えているだけ。

相手からの名前の呼ばれ方に合わせて自分の見せ方を変え、自ずと相手との距離感を微妙に変えているはずだけど、ごく稀に、自分がバグる時がある。
右足の次に左足を出して、その次右足を出す、という何も考えずに出来ていた「歩く」という動作がふと考え始めると動きがぎこちなくなってしまうように、特に何も意識せずに行っている自分自身の切り替え作業にふと立ち止まってしまうとき、どの自分にも居心地が悪くなってしまう。
どれも本当の私自身なのに、どれも私ではないような、結局どれが本当の私に一番近いんだっけ?という思考回路になるのだ。
そうしてバグると、相手にどの自分を見せていいかわからなくなり、態度が悪くなったり逆に馴れ馴れしく話しすぎたり、これはこの人に見せるべき自分ではなかった、と後悔する時がある。
見せる自分が変わると、相手との距離感が変わってしまうのに。相手との距離感を間違えると、どんどん自分を見失うのに。どの一面も間違いなく私自身だけど、見せる相手がズレている気がしてならない。

私の正体がわからない時は、いったん地球規模で考えてみる

今こうしてここに書いている、このエッセイ自体もよく考えたらそう。ここに書いている私は、本当に見られていい私なのだろうか?どのくらい私に近い私なのだろうか?今まで何も考えずに毎日生きていたはずの「私」が、ものすごくあやふやで、正体がよくわからない何かに思える時もある。

悪循環なバグが起きた時の解決方法は今のところ1つだけ。いったん地球規模で考えてみるのだ。
今日の自分の誰彼に対する振る舞いに後悔したとしても、思い出すと恥ずかしくて穴があったら入りたかったとしても、大丈夫、私の見せ方は私がいやでも心得てるし、周りからしたら「プーちゃん」も「よっしー」も「ひかりん」も「吉岡さん」ももしかしたらそう大差ない。私自身の微妙な変化など、地球規模で考えたら心の底からどうでもいいし、地球規模で考えなくたって多分どうでもいい。

という結論に至ると、「私」迷宮から抜けた私はなんとなく落ち着いて、てか最初から全部そもそもどうでもよくね?という自分の中のギャルな私が言い放ってくれるのだ。
私が内心慌てているほど、周りは良い意味で私を気にしていないし見ていない。
自意識の迷路は抜け出しても抜け出しても遭遇するので厄介だけど、大丈夫、私だけは死ぬまで付き合うからね。