「普通の名字で生まれてきたかった」
今まで何度そう思ってきたのか、もはやわからない。
生まれてきてから今日まで、自分の名字について数えきれないくらい悩んできた。
なぜなら、小学生の頃からずっと自分の名字が嫌いで仕方なかったから。

普通に読める名字の人が羨ましくて。嫌な思いもたくさんしてきた

私の名字は非常に珍しい。同じ名字の人に今まで出会ったことがない。小学校で習う漢字二文字から成り立っているけれど、読み間違いや書き間違いはしょっちゅう、電話で名字を伝えても相手に聞き取ってもらえないこともあった。
諸説あるが、日本には数十万種類の名字があるらしい。「なんで数十万分の一の確率で、わざわざ普通じゃない名字を背負って生まれてきたんだ…!」と何度も思ったし、普通に読める名字の人が本当に羨ましかった。

成長とともに名字のせいで嫌な思いをたくさん経験してきた。
小学校3年生のある日。クラスのカースト上位にいる女子から、私の名字を大声で馬鹿にされた。周りにいたみんなもクスクス笑っていた。自分や家族まで馬鹿にされたような気持ちになり、私はただ背中を丸めて机に視線を落としているしかなかった。でも、その後の休憩時間に一人の友達が、「私はそんなこと思わないよ」とそっと言いにきてくれたことは、大人になった今でも私の心を支え続けてくれている。ありがとう、あなたの優しさを私は死ぬまできっと忘れない。

中学校では、何か月経っても間違った読み方で私の名字を呼ぶ先生がいた。教室中の視線や心の中の笑い声を背中で感じるあの瞬間は、大人になった今でも二度と体験したくない。目立つことが何よりも嫌いな私にとって、そのときの恥ずかしかった気持ちや教室の空気は、筆舌に尽くしがたい。

こんなこといちいち気にしないくらいの自己肯定感や明るい性格を持っていれば、たぶんこんなに悩むことはなかっただろう。けれど、小学生・中学生という多感な時期において、みんなと違って珍しい名字を背負って生きていくということは、私にとってはそう簡単なことではなかった。

思春期に入ってからは、大勢の前で名字を呼ばれたり人目に触れたりするたびにいちいちどぎまぎしたり、周囲の反応を気にしたりするようになっていた。
そんな経験から、自分の名字を他人の視線から守るために編み出した術が、いくつかある。例えば、名札を他人からはっきりと見られないように付けたり、会うのが一回限りの相手と分かっていれば違う名字を名乗ったり…。こうやって私は、名字を隠しながらコソコソと生きるようになった。

衝撃的なサークルとクラスの文化。名字が珍しければあだ名にしよう

月日が経ち、大学に進学して衝撃的だったことがあった。それは、サークルやクラスで男子と女子がお互いを下の名前で気軽に呼び合っていたことだった。そんな文化は私の今までの中学高校生活にはなかった。下の名前で呼び合うことが男女の仲を一気に縮めるような特別な行為な気がして、少し羨ましくもあった。

「下の名前で呼んでもらうのもいいけど、みんなが呼びやすいあだ名ないかな」と考えていたとき、ふと中学生のときに私のことを「○○(私の名字をもじった呼び方)」と呼んでくれた友達がいたのを思い出した。

「下の名前よりこっちのあだ名の方がみんな呼びやすいかもしれない!」。そう思った私は、自己紹介ではこの「○○」というあだ名で呼んで欲しいと伝えるようにした。すると、このあだ名が男女問わず、先輩、同期、後輩の間で想像以上に浸透した。友達曰く、下の名前よりも「○○」という響きがどうやら私のイメージにしっくりときたそうだ。
普段私からあまり話しかけに行くことのなかった人も「○○」と呼んでくれて、そのことが嬉しかった。

大学で人脈や世界が広がってからは、私の名字を「良い名字だね」や「私もその名字が良かった」なんて言ってくれる素敵な人達にも出会えた。

普通の名字だったら逆に、今の私はなかったのかもしれない

幼少期から内向的で人見知りな性格の私は、大人になった今でも人と打ち解けるまでに時間がかかってしまう。でも、みんなが最初から「○○」と呼んでくれたおかげで、本来なら人と打ち解けるまでに必要なステップをすでに何段かすっ飛ばしてくれたような気がした。

これを機に、自分の名字を逆手にとることもできるようになった。初対面の人に挨拶をするときには、「漢字でこうこう書いて、こうこう読みます」と自分から言うことで、相手に覚えてもらったり話のきっかけにもなったりした。要は、自分ではマイナスだと思っていたことも考え方次第で自分の味方や武器にできるのだ。

今までずっと普通の名字に憧れてきたけれど、普通の名字だったら逆に今の私はなかったのかもしれない。私のことを「○○」と呼んでくれる大切な人がたくさんできた。普通じゃなくても案外悪くはないかも。少しだけそう思えるようになった。

私はまだ独身だけれど、もし将来結婚して普通に読める名字になったら、それはそれで嬉しい。でも、今の名字とおさらばするのも少しさみしい気もする。それまでの間、自分の今の名字と上手く付き合っていこう。