私が、変えたいと思うもの。それは、理不尽なことに気づいた人が上に立って社会を変えろということだ。
これは当時、親にも先生にも言われたことだった。しかし、本当にそうなのだろうか。それが、むしろ世界を変える足枷になっていないだろうか。大人の不都合に気づいた子どもへの呪いの言葉になっていやしないだろうか。
大人だって気づいていても変えることを諦めたから他の人に投げているだけではないのだろうか。そもそも、世界を変えるために上に立つ必要があるのだろうか。
ただ問題を解くことが楽しくて勉強することが好きだった
私は、ある時、気づいた。もとから勉強することが好きで、県内で有数の進学校に入った時、掲示板に名前があることにほっとしたが、泣いている人がいることに。
私は、ただ問題を解くことが好きで、深く考えたことの発見に感動したり、勉強をする仲間の考えを聴いて新たなことを知ることが楽しくて、勉強を続けてきただけだった。なのに、こんな勝ち負けの世界になぜ学びを入れられてしまったのか。
また、私の親友が入院するほど大きな病気になり、それが中学校3年生での出来事だった。そのため、受ける学校が限られて手紙に「私だけみんなと同じレールから外れてしまったと思った。だから、私の代わりに受かってほしい。私の恨みを晴らしてほしい」と書かれていた。
順位や結果にはこだわらない。テストは私にとって不思議な制度
でも、その子の代わりに私がなれるわけではないのは確かだ。その子だって、学びは保証されるべきなのだから。入試制度はあっても構わない。ただ、不利な状況にいる人選択肢もない状態の人もいるのに、私が勝ったみたいなことは言えないのではないかと強く思った。
だから、合格者の掲示板を見て、ほっとしたのだ。いつもなら特に順位や結果には、こだわらない。むしろ、その過程の解く楽しみやどこに引っかかったのかを気にする。自己に始まり、自己で終わるものであってもいいはずなのだ。
テストなんて、不思議な制度だと思っていた。この複雑な気持ちを伝えると必ず「あなたは賢いから理不尽なことを変えなさい」と言われた。だけど、本当にそうなのだろうか。
勝ち負けではない。好きなことこそ世界を変えると思う
そもそも理不尽を変えるために学ぶ、なんて本当に変なことではないのか。そう気づいたは、浪人して大学に入ってからだ。好きな学問を生き生きとした表情で学び、高度な技術の海を泳いでいく友人は、その姿に活気もあり、加えて、研究の内容も腹の底からあつくさせるのだった。
学ぶことに重荷や苦しさを感じないその自由さ。理不尽なことを突きつけられ、変えろと言われる者にはない。画期的に世界を変えられるのは自由に学ぶ者だ。
そう気づいた時に私にとっての学びは、息苦しさから探究の道へと変化していた。その時やっと、勉強の楽しさを感じる時間を思い出せたのだ。だからどうか、理不尽なことがあったとき、自分を好きな心地のよいことで満たしてほしい。それが世界を変えるのだから。