この話をすると嫌味に聞こえる人もいるかもしれないけれど、中学生の時の1番良い成績はオール5だった。高専の1~3年生まではクラス1位だったし、4~5年生の成績もトップ5には入っていた。
でも、私は通知表の評定に何の意味があるのだろう?と思っていた。テストの点数が高いからといって、頭が良い訳ではないことを知っている。
なぜなら、私は勉強ができなかったから。
数字だけがものを言う。死ぬ気で勉強したことなんて評価されない
勉強ができない人がオール5なんてとれない、クラス1位ってカンニングでもしたの?と思うかもしれない。でも私は別にカンニングした訳でもずるした訳でもなくて、他の人と比べてかなりの負けず嫌いだった。ただそれだけだったのだ。
忘れもしないエピソードとしては、中学生の時、評定が45点満点中44だったことがある。三者面談で「あともう1高ければオール5だったのに、とても悔しい。もっと頑張りたい」と先生に言ったところ、「なかなか傲慢だね。44とれない人だっているのに、欲張りじゃないか?」と言われたことがある。
先生の言っている意味がよく分からなくて、その場では何も言えなかったけど、欲張りってなんだ?45がとれなくて悔しいと思ってしまうのは傲慢なのか?と思って悶々としたことがある。試験前は毎日2時間以上勉強して、解けなかった問題は自分が納得いくまで何度も解いて、それでも納得のいく点数が取れなかった時の悔しさを踏み躙られた気がした。
私の家はそこまで裕福ではなかったから、どうしても推薦で高専に合格したかった。だから中学1年生から学年で10位以内には絶対に入りたかったし、試験勉強だって毎回死ぬ気で勉強したし、テスト返却時は99点が悔しくて、70点台だった教科なんて頭が真っ白で帰り道こっそり泣きながら帰った。
なのに、そんな背景なんて知る良しもなく、本当にただ試験の結果、点数だけが物を言うのだと痛感した。
評定なんてなくしてしまえ。点数だけじゃなくて、私自身を見て!
めでたく高専に入学して、私は自分がもっと勉強できないことを思い知らされた。どちらかと言えば文系だった私にとって、理系・専門科目なんてちんぷんかんぷんで試験以前に授業についていけないという有様だった。
成績というのは、どの過程でも人を比べる物差しとして扱われることを知っている。希望の研究室に入ることも、就職先も、ちょっと風変わりな担任だった時は教室の席順さえも。だから私は、高専でも頑張るしかなかった。
私が高専でも頑張れたのは、ひとえに当時付き合っていた元彼氏と恵まれた友人のおかげだと思っている。勉強ができないことを馬鹿にされたことも、呆れられるぐらい理解できなくても、諦めたら?と言われたことはなく、一緒に頑張ろう!と言ってくれたから、私は自分が納得のいくまで勉強できて、それが試験の結果にも表れたと思っている。
でも正直、“評定なんてなくしてしまえ!”または、“評定だけではなくて、私自身を見て!”というのが本音である。
高専の推薦入試時の面接だって、学校推薦で受けた会社の面接だって、面接があるということは求めているのは“成績”だけでなくて“人柄”だと思っている。“成績”だけが優秀な人材が欲しいのであれば、わざわざ面接する必要はない。
実際、私は高専時代勉強以外で、教育関連のボランティアや国際交流、部活動は運動部と文化部を兼部したりと、話の引き出しがたくさんできた。そのおかげで、自分という人がどんな人なのかアピールできたと思っている。
誰にだって、長所がある。得意なことを伸ばしていけるような社会に
話は少し変わるが、学習指導要領の2017年の改訂に伴い、PBL教育が推奨されている。PBL教育とは文部科学省が重要視している「主体的・対話的で深い学び」のための手法の一つとして注目されているもので、生徒・学生が中心となり、答えが一つに決められていない問題を解決する経験を通して学ぶ手法である。
この学習指導要領の改訂は、“評定という最終結果だけでなく、その過程で気付きや学びを得て欲しい”といった思いが込められていると私は勝手に解釈している。
評定という一つの物差しでその人の全てを推し量ることができない。
勉強以外に力を入れたことはそれぞれあるし、興味のあるものは千差万別なのだから、評定社会を必ずしも是とせず、この先もっと柔軟にその人の長所や得意なことを伸ばしていけるような社会になってほしい。