特別な何かをしていなくても許されるような雨の日が私は好きだった
高校三年生の冬。私は恋をしていて、呆気なく敗れた。同時期、私は受験にも失敗してていたからひとしお、そのダメージは痛かった。
彼は私の通いたかった大学から合格をもらっていて、部活や委員会でも頼りにされていた。
私はといえば、そういった集団行動に、昔から上手く馴染めなかった。海底生物のようにひっそりと、そこに所属することは叶っても、気づけば誰からも必要とはされず、ただそこにいるだけだ。
そのため一度何か足を引っ張ってしまうようなことをすると、もうそこにはいられない。私自身に価値はないのだから。こうした孤独感のようなものは、誰にも共有しづらいものである。絶対的な悪役が存在するでもなく、恋人が出来ない、というようなフランクな相談事とも相容れない。
だから私は、雨の日が好きだった。人々は活動を控え、うちに籠る。特別何かをしていなくても、許される。その存在に何の生産性はなくとも、許される。
私に興味を持ってくれた彼。「何もない」がバレそうで苦しかった
趣味とかある?
休みの日何してるの?
誰と仲良いの?
彼は私に、興味を持とうとしてくれていたと思う。
だけど私は、私について聞かれるたび、苦しかった。私には何もないことを隠すように、嘘をつくこともあった。
偽りの答えを彼は喜び、本当の答えには、絶妙な相槌。大人っぽい人だったから幻滅も期待も、露骨に表すことはしなかったけれど、彼が喜ぶ人物像は、なんだかわかりだした。そうしていよいよ、苦しくなった。
第二志望の大学に通うようになって1ヶ月ほどたった麗かな春の日。過呼吸になった。彼に負けてる、そう思った。
ひどい振られ方をした訳じゃない。彼は順調に、あまりに軽快に、未来へと闊歩していた。それが私にはとても残酷だった。
晴れの日が続いて、春は苦しかった。そうしてやがて、梅雨が来た。
梅雨の日に一人、机に座り、私はまた大学を休んでいた。あと1日休んでしまえば、単位を落とす。つーたんたん、つーたんたん。雨の日と晴れの日では、休むことへの罪悪感がまるで違う。
彼好みから離脱して、雨の日が好きな「私らしさ」を追及していく
「雨が降ったらおやすみで」
ハメハメハ大王でもあるまいし、だけどそれは真理だった。雨は、私を許してくれる。「ずっと真夜中でいいのに」そんな名前のバンドがあるが、真夜中と雨はきっと似ている。
今まで、どんなことしてきたの?
いろいろ、嘘を重ねることはできた。だけどしなかった。
なんか楽しければいいかなって思っちゃうんだよね。
私はそう答えられた自分が、すごく好き。すごくは嘘だね。だけど、雨の日みたいに、いつも好き。
あの時彼は、なんて言ったんだっけ。何も言わなかった気がする。
私たちは、根本的に違う人間だとわかって、それで別れた。恋人にも満たない曖昧な、曇り空のような関係性から私は一人、豪雨へ踏み出す。彼が日向の似合う人なら、私は雨を愛したい。マイノリティだし、好かれもしない。だけど私は、私が愛しい。
こうやってエッセイを寄稿することで、私はまだ執着している。何か意味のある人間に、存在になろうと、もがいている。よく言えば、「彼好み」からは離脱して、私らしさを追求するために。
だけど一方で、生産性のある人間でなければならないという呪縛からは、いまだ逃れられていない。
雨の日が好きだ。その雨が強ければ強いほど、私は嬉しい。傘を固く叩きつけ、出来れば落雷なんかもあると嬉しい。雨を理由に、立ち止まることをどうか、許して。