振り返れば、中学は毎日部活に明け暮れ、帰りに友達とゲームセンターに寄り、夜まで友達とたわいもない話をし、高校はバイトに遊びに明け暮れ、学校に行ったり行かなかったり。そんな学生時代だった。

中学生のときはちょうどプリクラが大流行しているときで、みんなで毎週のように部活帰りにジャージや制服で池袋のゲームセンターによく撮りに行っていた。
 
高校生になると親や学校に秘密でバイトをしたり、週末は新宿で買い物したり、ゲームセンターに行ったりして遊び倒していた。学校をサボって、カラオケや夢の国に行ったこともあった。

生意気だった学生時代、真っ当な道から逸れることが生き甲斐だった

世の中の人が頑張って学校や会社に行っている時間帯に、制服を着てサボっている高揚感といったら何とも言えない最高な物だった。今日は行きたくないなぁと思ったら、とりあえず学校の近くの駅まで行き、2Fにあるスターバックスに座りスクールバスの列を見下ろしみんなを見送る。みんな頑張れよといった感じで、上からみんなが学校へ行くのを見下ろし、最後のバスが出発すると少し微笑みを浮かべ、さぁ今日は何をしようと考えたものだった。

 
高校生の私は、とても生意気だった。何故、朝から夕方まで時間割に沿って学校に行き、良い成績を納めることが褒められるに値するのか、意味がわからないといった感じだった。

真面目にきちんと育ってほしいという思いからか、家の規則が厳しかったことに加え、制服の着こなし、靴下やセーターの色、髪の毛の色、ピアスホールの禁止、バイト禁止などうちの学校には沢山の校則があった。

高校は一学年の人数が500人程いて14クラスもあり、もはや3年間で知り合う人や名前を覚えられる人なんて限られていた。しかし、私は後に親友となる女友達と出会った。

その子とは3年間クラスが同じで、かつ出席番号が前後という奇跡的な出会いだった。毎日のように連絡を取り、よく一緒にサボった。片方が学校に来ていないときは、片方が先生に欠席のフォローを入れた。校則に沿っているかチェックする制服や容姿の検査の日には、黒スプレーを髪にかけてあげたり、ピアスホールをコンシーラーで埋めたりしたものだった。途中で学校を一緒に抜け出して、遊びに行ったりもした。

抑圧から逃れるために始めたバイトという世界で、私は世の中を知った

最高な日々だったがおかげさまで、反省文を書いたり、先生に謝りに行ったりといったことが絶えなかった。本当に今思えば親不孝な娘達だったと思う。担任の先生にはよく、「お前には何も期待していないが、学校にいる以上責任を果たせ」と言われた。当時の私は、意味がわからなかった。何も期待していないなら放っとけよくらいに思っていた。クソ学生だ。

高校生の頃から今に至るまで、社会に出て色々な職種のバイトをした。色々な街で色んな人達と出会い仕事をした。今振り返れば、そこで主に社会を学んだように思う。学校のルールこそ破っていたが、高校生のときから色んなバイトをしたことで、社会の人がどんな風に働いているのか覗き見ることが出来た。

17、18歳の頃の20歳以上の人は実に大人で、経験豊富なお兄さんお姉さんといった風に見えていた。何も知らない私は、働き口と先輩達に迷惑をかけないように必死だった。学校には行かないくせに、バイト先には10分前に着いていた。

お金をもらって働くという目に見える形があるからか、たとえ嫌なことがあったとしても、もらう分はしっかりこちらもやらなければといった気持ちになった。世の中はこうやって成り立っているのかと、毎日色々なことを学び倒していた。社会のルールを学び、人の本音と建前など、なんだかありとあらゆる世の中の裏を見た気がした。

今思えば、先生の言っていた、学校のルールを守りそこに所属している責任を果たすということも、同じことを示していたように思う。どんなに楽しいこともつまらないことも、興味があることもないことも、学校という社会において対人関係を含めて揉まれていくいうことに意味があると言いたかったのであろう。私が外の世界で気づき学んだことと同じことを、先生は学校という社会で教えてくれていたのだが、私はだいぶ後になってからそれに気づいたのだった。

優秀な人生もいい。でも、沢山の失敗も私にとっては「学び」となった

学校をサボることは良くないことだと思うが、私にとっては外の世界で大事なことを学び青春の1ページを築いたということもあり、今はあの時代に後悔など全くない。ただその怠惰さによって、後に苦労したことも山のようにあったため、途中で私は何をしていたのだろうと思ったことは何度もあった。

沢山の規則に縛り付けられ、勉学の出来と出欠日数だけがあなたの生きる道と言われているようだったあの時代。私は抑圧に耐えられず、全く人に誇れない方向で社会を知ったわけで、後に沢山の失敗をして社会人として歩んでいくことになる。

しかし、もし真っ当に学校に行き、勉学も優秀なくらい力を入れてこなす方向に進んでいたら、今頃どうなっていたのだろうと思う。最近では、英才教育という親のエゴで良い学校に入れられ、習い事と学習塾を毎日の様に入れられている子供達のニュースを見かける。そんなニュースを見ていると胸がきゅっとなる。

そして、これは本当に彼らの意思なのだろうかと思う。単なる親の誇りにしたいだけで、子供の本当にやりたいことを抑圧しているだけなのではといった気分になる。一概にそれがだめだとは全く思わないが、たまに映る窮屈な子供の顔を見ていると、人間が生きて行く上で大事なこと学ぶ機会を、親のエゴにより欠落させている気がしてならない。未来ある若者は、多少道が逸れたとしても、自分の意思で大きく自由に羽ばたいてほしい。私は心からそう願う。