そうだ、フィジーに行こう。
就活を無事に終え大学4年に入る春、ふと決意した。

理由は本当に単純であった。
ダイビングが好きで、海洋問題について興味が昔からあったから。
ボランティアをしたいと思ったものの、「意識高いね」といわれるのが嫌でなかなか踏み出せなかったから。
そして周りの声に左右される自分の人生を変えたいと思ったから。

海外に住んでいたこともあり、言語の壁は特になかったため速攻ボランティアに申し込み、自分らしさを取り戻す旅へ踏み出した。

のんびりしたフィージーで知った「フィジータイム」の存在

元気よく出発した私を出迎えたのは青い海、白い砂、パイナップルがグラスの縁にさしてある歓迎ドリンク……ではなく、照りつける熱い日差しと宿まで片道6時間以上の地獄の道のりだった。

というのも、乗っていた大型バスが途中で故障したのだ。

暑い中、どこかもわからない市場にいきなり下ろされ、とりあえず次のバスが来るまで待てと運転手に告げられる。
市場はちょうどお昼頃だったこともあり、お昼を買いに来る人と故障したバスに乗っていた乗客でごった返していた。

自分のスーツケースの安否もわからなかったため、一気に不安が襲ってくる。同時に朝から何も口にしていなく空腹状態から、怒りもふつふつとわいてきた。
「日本じゃ絶対にあり得ない……」

代わりのバスは2時間過ぎにやっと到着した。
壊れかけの補助席にどうにか座り、隣のおばちゃんに押しつぶされそうになりながらじっと耐える。いらいらする私をよそに、となりのおばちゃんは楽しそうにお昼を食べている。

「時間にルーズなのにも程があるだろう……」
それまで私は知らなかったが、これこそがフィジータイムだった。

フィジータイムとは、フィジーの独特な時間の流れのことである。
とにもかくにも時間に対してルーズなのである。
今回のバスのような故障や遅延は当たり前。バスが来ないことも日常茶飯事。
日本人からすればあり得ない感覚だが、現地では「Because it’s Fiji time」でだいたい許される。

フィジーでは、皆小さいことを気にせずにのんびり過ごしていた。
そしてフィジーの人は全く怒らない。いつも笑顔でケラケラしている。
最初はあり得ないと思っていた私だが、このフィジーの生き方はなぜだか幸福感が増すような気がした。

生い立ちも価値観も違う友人たちと語ったバーで自分を取り戻していく

日中の活動は主にダイビング調査やビーチでのゴミ拾い、マングローブを植えたり現地の子供への環境問題を教えたりと楽しくも充実した時間を過ごしていた。
そして夕食後のフリータイムは近場のバーによく飲みに行った

高校を卒業したばかりのアメリカの少女から、転職期間を利用しているドイツ人のおばちゃんまで、出身国も、生い立ちも、年齢も、価値観も全く違う友人に囲まれながらバーではいろいろな事を話した。

海洋問題のこと。各国の政治問題のこと。出身国のおすすめポイントや恋バナまで。
夜の暗闇に染まった海を眺めながら、少し度の強くぬるいモヒートを流し込み、皆と語り合った。

なんてことのない些細な時間。
自分の好きなことについて全力で語れる空間。
ゆるやかで穏やかな時間が過ぎていった。

たまには全てを手放そう。フィジータイムが私にもたらしてくれたもの

今まで忙しい毎日でなんとなく適当に過ごしていた。
人の目ばかりを気にして、いつの間にか自分の好きなことが見えなくなっていた。
自分という輪郭がぼやけることに対して焦り、人生を楽しんでいる人に対してどこか卑屈になっていた。

フィジーの人に教えてもらったこと。
たまには全て手放し、立ち止まり、のんびり過ごそう。
いろんな人と話してみよう。
自分をもっと好きになろう。

たまにはフィジータイムで過ごす事を忘れないようにしよう。
帰りの飛行機、壊れた座席を交換してもらい運良く窓側になった私は、小さくなるフィジーと真っ青な海を眺めながらそっと心に誓った。