私は女子大出身である。だからといって、大学を選ぶ際に女子大だからという理由で選んだわけではない。
小中高は共学の学校だった。これも特に共学だからという理由で学校を決めたわけじゃない。共学、別学に特にこだわりがなかったのだ。別学の大学に進むまでは。

共学・別学が理由ではなく、学びたい分野で結果として別学を選んだ

小中高でそれぞれの学校を選んだ理由は全て「公立且つ一番自宅から近い学校」だ。理由はそれだけだった。だからそれ以外の学校に対しての興味がなかった。周囲の公立校は全て共学だったため、別学に行くという選択肢は条件上では全くない。
ところで最初にも書いた通り、私は女子大の出身である。その女子大を選んだ理由は「図書館司書の資格の勉強が出来ること」「創作に関する分野の授業があること」の二つである。
またしても共学・別学が理由ではない。けれど、結果としては別学の大学を選んで正解だったと思っている。

始めのうちは「司書課程を修了すれば、図書館司書の資格を得られる(実際は、図書館司書になるための試験を受ける権利を与えられる)。それから趣味の創作活動の幅を広げたいから、それ関連の授業が取れれば良い」ぐらいにしか思っていなかった。他は興味があろうがなかろうが、卒業に必要な単位を得るために受ける授業でしかないと。
だから自分の学びたい分野以外の授業を選ぶまではなかなか気が重かったのだけれど、カリキュラムを調べている中であることに気づいた。一部の授業の内容が、女子大だからこそ学べるもの、女性に寄り添ったものになっているということだった。

知ろうともしなかった女性に関する問題を学び、視野の狭さに気づいた

例えば文学でも女性の作家だけを取り上げている授業であったり、女性の社会問題を取り扱っている授業があったり。そのいくつかを実際に受けてみて自分の視野の狭さに気づいた。当事者の一人であるはずなのに見ようとしなかった、知ろうともしなかった女性に関する問題がいくつも突きつけられた。
それらを学んでいくうちに、今まで見逃してきたことに気づいた。結論を言うと、学んだのは女性に寄り添ったものが多かったけれど、「女性だけではなくどんな性別の人々も『外見が男性だから、女性だから』というレッテルによって制限が出来ていること」についてだった。

それに気づけない人々がいるのも仕方のないことだと思う。根づいた当たり前の生活に毒されてしまっている。性別のレッテルに縛られた生活に慣れすぎて何の疑問にも思わず、受け入れてしまっている。四年間の学びを通して、それに気づけただけでも良かったと思う。自分の意思で選べない性別に縛られる必要なんてない。どんな性別の人とも一人の人間として付き合うべきである。

レッテルを作り上げた人々の歴史や事情を、男女両側の視点で学べたら

前述したが、女性から見た◯◯といったような授業を多数学んだことで、性別のレッテルによる縛りに私は気づいた。これは別学で女性に寄り添ったものが多かったからわかったことだ。でも、これでは男性側から見た事情のことはわからない。
レッテルができてしまった原因の根本を探るには、バックグラウンドから知るべきだと思う。このレッテルを作り上げてきてしまった人々の歴史や事情だ。それを男女両方側の視点で学べたらいいと思う。
さらに言えば、特に男女揃っている共学でこそ扱うべきではないだろうか。知らず知らずのうちにレッテルに縛られて生きてきた人たちが、まずはそれを知ることでそのレッテルの存在に気づくことから始め、男女両方のレッテルについて知り、共有すること。それによって解決策の糸口が見つかるかもしれない。