今年2月の下旬に、自分のこれまでの半生を描いたエッセイ本を出版した。

とにかく、その時の自分のもてる全てを出して書いて、担当編集にも太鼓判を押してもらったその一冊。
それが書店に並んでる姿を見たくて、私は発売日の朝10時に地域の大きな書店へ行った。

すると、エッセイコーナーに、ばっちりと面陳。最高。

他の本屋に行ってみても、平積み・面陳のオンパレード。
新刊だからっていうこともあるだろうけど、営業の人が本当に頑張ってくれたんだなあと、涙が出そうになった。

笑顔になったのもつかの間、その後も何軒か書店をまわって気がついたことがあった。
自分のエッセイが、多くの書店で「女性」というコーナーに置かれていることに。

ジェンダーについて書いたら女性向け?

いや、普通に「女性」ってなんだよ?
女性向けのエッセイだろうっていうことは分かるんだけど、私は別にその本を女性に向けて書いたつもりはない。
自分のズタボロな半生をさらけ出すことで、誰かの生きる糧にはなるんじゃないかと思って書いた文芸作品なので、性別はおろか、年齢だって読者層を想定したことは一度もない。(担当編集はもしかしたら考えていたかもしれないが)

ただ、本の装丁のカラーリングはパステルカラーで何だか可愛らしい感じになってしまって、いかにも女性向けなテイストになってしまっている。
もしかして、それが原因?
あと、テーマの一つとしてジェンダーや若年女性の生きづらさを書いたから?
いや、ていうか、ジェンダーについて書いたらなんで女性向けになるの? 
ジェンダーって男性の問題でもあるじゃん!!
「女性」コーナー作るなら「男性」ってコーナーも作れよ!!!

などと、モヤモヤがしばらく続いた。
でも、本を置いてもらってるだけでもありがたいので、ツイッターやブログで文句を垂れようものなら炎上するかもしれないし、知人に言っても「ぜいたくな悩みだ」とたしなめられるかもしれない。
誰にも文句を言えなくて、マスクの内側で下唇を噛みしめながら、今日の今日まで過ごしてきた。

ジェンダーについて学べるのは女子大だけ

私が思ったことを明確にしぼると、一つ。
ジェンダー系のトピックになると、なぜとにかく「女性向け」にされてしまうのか。
ジェンダーを考えるのは、別に女性だけの役割ではないはずだ。

これは、大学での「ジェンダー学」についてもいえる。
私は現在、奈良女子大学でジェンダーを学んでいるが、その前は東京理科大学に在籍していた。
私がなぜ、「ジェンダー学」を求めて「女子大」へ編入したか。
もう勘のいい人はお気づきかもしれないが、ジェンダーをきちんと勉強したいと思った時、日本国内では女子大しかほぼ選択肢がないのだ。
なかには、共学でもジェンダーのコースやゼミが用意されていることもあるが、私が知っている限りでそういった大学はほとんどない。
だいたいの大学が、家族社会学の一部のトピックとして、全部で15回ある授業のうちの1回か2回ぐらいでジェンダーを扱って、はいオシマイ。
もし教養科目として独立して「ジェンダー学」が設置されていたなら、それはかなりいい方だ。
しかも、「ジェンダー学」を教えている先生は、ほぼ女性の先生で、男性のジェンダー学者は非常に少ない。
(ジェンダー学を専攻したいと思っている男子学生は、一体どうしたらいいのか……)

こんなことになっているのは、多くの男性がジェンダーをどこか「他人事」と思っているせいなのかもしれない。
しかし、男性だって日常生活を送っていて、絶対にどこかで生きづらさを感じているはずなのである。
例えば、男ばかりの満員電車で、なんで男ばっかりこんなに外で働いてるんだろうと不満に思ったら、それは女性が社会に出にくい社会構造があるからだ。
もし女性が社会に出やすくなって、男性同様に賃金を稼げるようになったら、代わりに家で家事や育児を担当する男性だって増えるかもしれない。

男女の生きづらさは表裏一体なのである。
そんな社会の中で、私は男性にだってジェンダーを考えてほしい。
だから、私の本を「女性」という謎コーナーに置かないで。色んな人に手に取ってもらいたいんだから。

いい加減、ジェンダー=女性が考えることっていう風潮、やめません?