「日本の最高峰の大学 女子学生は5人に1人だけ」
というショッキングなタイトルの記事がニューヨークタイムズ紙に掲載されたのは、2019年の12月のことだった。
その記事によると、東京大学の女子の入学者数は、ほぼ20年近く、約20パーセントで推移しているらしい。そしてこの男女の不均衡は、東大だけでなく、多くのいわゆるトップ大学に共通している。国立大学7校の中で、女子の学部生が占める割合はわずか4分の1強、慶応早稲田では約3分の1強であるらしい。
こういった不均衡の背景には、日本では、女性は男性ほど成功することが期待されていないことや、女性が学業で成果をあげることは女性らしくない、という考えを繰り返し刷り込まれていることなどが挙げられるという。
「なんで東大目指さなかったの?」。当時もこの言葉が引っかかった
この記事を読んだ時、私は昔、ある人に言われた言葉を思い出した。
「なんで東大目指さなかったの?」
高3の時に短期間だけ通った塾の先生に言われたこの言葉。もう10年近く前のことだけれど、まだ覚えていた。というよりも、ずっと記憶の深いところで眠っていたけれど、この記事を読んで、思い出した。
それはおそらく、その当時もこの言葉に引っかかる部分があったからだろう。
確かに私は、ずば抜けて成績が良いというわけではなかったけれど、地元の公立中学校(共学)から県立の進学校(共学)に通って、そこでの成績も悪くはなかった。
何より、勉強が面白くて好きだった。でも、東大を目指したいなどという考えが浮かんだことは、人生で一度もなかった。
それは一体、なぜだったんだろう?
断っておくが、これはもちろん、私が東大を目指していたら絶対に受かっていただろうという自惚れを語りたいわけではない。そもそも、私の成績がもっとよかったら、共学だろうとそういう話になっていたかもしれない、というだけの話かもしれない。
しかし、この記事を読んだ後では、原因はどうもそれだけではないような気がしたのだ。
おそらく、単純に答えを出そうとするならば、それは色々なものの偶然のコンビネーション、ということになるのだと思う。私自身の興味、性格、それに家庭環境。
男女共学という環境で、知らないうちに自分で勝手に限界を決めていた
それでも、私には、どうにも、私が女性であるというだけで、知らず知らずのうちに、自分自身で勝手に自分の限界を決めていたところがあるのではないか、という気がするのだ。
そしてそれは、男女共学という環境で小学校から高校まで育ち、学んでいく中で、強化されていったのではないか、と私は思うのである。
私は都内の公立小学校で働いているのだが、大人の振る舞いが児童の社会的性差を強化していると感じる場面に多く出くわす。
例えば、なかなか話が聞けなかったり、落ち着きがなかったりする子供の対応。男子児童であれば、「やんちゃ」で済ませてしまうところを、全く同じことを女子児童がやっていると、「ちゃんとしなさい」と、何倍も厳しい態度で叱る。
これは、女子の方が「ちゃんと」しているべきという社会的な、勝手な期待を小さい頃から植え付け、突拍子もないことをして失敗をしたり、集団の中で目立ったり、という経験をする機会を、女子から遠ざけてしまうのではないだろうか。
もし、私が女子校に行っていたら、東大を目指していただろうか?
また、例えば、体育の時間に、逆上がりのお手本見せてくれる人?と教員が聞くと、手を挙げるのは男子児童ばかり。手を挙げている男子児童よりよほど上手な逆上がりを先ほどまで披露していた女子児童は、恥ずかしそうに周りの様子をうかがっている。
これも、うまくその場で教員が介入していくなり、普段から男女関係なく人前で得意なことを披露する自信をつけさせていくなりしないと、世の多くの男性が持っている(ように私は感じる)「根拠のない自信」を助長させることになるのではないか、と思う。
もちろん自分が小学生だった時は気づくはずもなかったけれど、大人になった今、日々繰り返されるこういった学校での日常を見ていると、強く思う。
こんな環境で育っていたら、女子の中に、ずば抜けて何かを達成しよう、とか、もっと上を目指そう、という野心が育たないのは当たり前だし、女子が、社会の求める、定義はなんだかよくわからないけれど、「ちゃんと」した「普通」の人という枠にはまらないと、と思うようになってしまうのは当然だ、と。
では、もし、私が女子校に行っていたらどうなっていたのだろう?
もっと自分に自信を持ち、「まじめでいい生徒」を演じるプレッシャーを感じることもなく、もっと自分の才能を開花させて、東大を目指していただろうか?
人生にifはない。でも、ふと、考えてしまうのだ。
もし、私が女子校に行っていたら、東大を目指していただろうか?と。