私は中高女子校育ち。
貴重な青春時代を女子校で過ごした身としていえるのは、共学じゃなくても間違いなく楽しいし、現代の男女平等を考える上でも重要な礎となる6年間だったと思う。

流れに身をまかせて女子校へ。共学との違いは色恋沙汰がないぐらい

私が女子校に入学したのは単なる偶然。進学を選ぶ上で、私にとってちょうどいい選択肢だったからだ。
もちろん、私だって共学で男の子にきゅんとする青春時代に憧れないわけではなかった。でも小学6年生の私にとって、共学か女子校かの選択のプライオリティは高くなく、流れに身を任せていたら女子校に進学することになっていた。

女子校だからと言って男の子と全く関わりがないかといったらそうではなく、塾に通う人は男の子の友達もいたり、付き合ったりする子もいたようだ。
しかし、私は高校3年生になるまで塾にいかず、他にも男の子と接点のあるような習い事はなかったため、ほぼ男の子と縁のない6年間を過ごした。

共学と別学の一番の違いは、やはり学校での表立った色恋沙汰がないことかと思う。私の青春に恋愛のスリルはなかったが、凪のような6年は平和で楽しかった。

学園祭での可愛い先輩のダンスはまさしくアイドルそのものだったし、体育際でのカッコいい先輩のリレーのアンカーはまさにみんなの王子様。素敵な先輩を前に黄色い声が飛び交い、歓喜したものだ。

勉強をして、部活をして皆と遊んで。文化祭も体育祭も、スポーツ大会など学校の行事はちゃんと同じようにあるし、社会進出のため将来の進路を考えさせる時間も沢山あった。大昔の話と違って、ちゃんと自分の身を立てるための教育があった。

「たくましいですね」共学育ちの先生がこぼした一言が印象的だった

共学のことは全く知らないが、共学育ちの先生がこぼした一言が印象に残っている。
「ここの生徒はたくましいですね。大学に入っても力仕事も率先してやっちゃうみたい」

なるほどそうか、私達は体育祭のたびに机や椅子運びを結構な坂道の下にあるグランドまでえっちらおっちら運んだり、何をするのにも性別での区別はなく、自分でやることは当たり前だったからだ。

「女子」というフィルターが標準装備の、性差がない中高で育つと、逆に性差のことがわかってくる気がする。共学の大学に入学し、社会で生きる今となって本当にそう思う。

男女平等、それは重要な概念だが、どうしても生物学的な違いはあるのだ。一般的に、やっぱり女より男の方が力もあるし、体力もある。男はどうやっても妊娠できないし、出産もできない。

社会にはどうやったって同じにならない違いがあるから、平等が必要だ

6年間、「女子」の枠の中で物事を進めてきたからこそ、そんな違いを素直に認めることができる。重い物を持とうと言ってくれる男性がいれば甘えればいいわけで、日常生活の中で男女が力の差で張り合う必要はない。社会には、どうやったって同じにならない違いはあるからこその平等が必要なのだ。

男女の違いはどういうところに出るだろう?社会人になってよく考えている。できるなら結婚も出産もしたい。働きながら実現するにはどういう生き方になるだろうか?例えば恋に落ちると、その人が自分の中の最優先事項になってしまうところがあると思う。その人に趣味趣向を合わせてみたり、普段の行動が変わってきたり。

でも6年間男性に縁がない世界で自分に向き合うと、自分という人間がわかってくる。自分がどういう人が好きでどういう人とは合わないか。どういう風に生きたいか。私の根っこにある本音と近くなれた気がする。

男に頼る女は弱い?主婦になる女性は稼ぎ頭の夫に甘んじていて、男社会でバリバリ働く女性は強いのだろうか?いいえ、そんなことはない。男性に甘えたっていい。自分のできる範囲のことをやればいい。お互いに助け合えばいい。

言い古されてあまりにも陳腐だが、要は中身が大切なのだ。男の前だからとかではなく、可愛い女の子はどこへ行ったって可愛いし、カッコいい女の子はどこにいてもカッコいい。自分の道を歩む女性は輝いている。
そう思わせてくれた女子校が、私は好きだ。