●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「威力のある言葉」

じわりと広がっていくように放たれたふたつの言葉

俺は好きなんだと思う、付き合ってほしいんだけど。

半袖の服をクローゼットの奥にしまって長らく眠っていた長袖のシャツを久しぶりにとりだして着た、あの日の夕方に浴びたこのふたつの言葉の威力たるや凄まじいものだった。
言葉そのものの威力というよりも、狭く古く安い居酒屋の隅の席で、座り心地のよくない小さな丸椅子に対して何度も態勢を整えながら、尚登は何度も唇の端を締め直し、私の目を見たかと思えば次の瞬間には逸らしてを繰り返し、ゆっくりとひとつひとつの言葉を選んでいたあの瞬間はまるで何時間にも感じられて、え、とか、あ、とか、そんなような言葉を挟みながら、きっちりと固められていて直すところもない前髪を何度も触り、それから滲んでいくみたいにしてじわりと広がっていくように放たれたこのふたつの言葉だったからこそ、今でも身体の奥のほうにべったりと張り付いて剥がれないのかもしれない。

尚登と一緒にいると楽しいけど、付き合うとかそういうのじゃないのかも。

その後で戸惑いながらも私が放ったあの言葉に威力はあったのだろうか。何度考えても、どんな風速も纏わない、何の威力も持っていなかったように思えて仕方がないのは、尚登はさらにそのすぐ後で、いや付き合ったら楽しいから付き合ってみよう、俺は加南子をすっごい大事にするし、加南子も俺のことちょっと良いと思ってくれてるんなら悪くないと思う、と、私の主張などまるで厭わないようにして矢継ぎ早に言葉を紡いでいたからだった。

男性からの熱心な口説きというものは女性を舞い上がらせるものなのだろうか。そう言われてみればたしかにそうかもしれないと思い直させられ、そのうち楽しくなってきて、二時間後には尚登と付き合ったら幸せになれそうだと心から感じていて、一週間後には同じく座り心地のよくない椅子しかないあの居酒屋で、尚登の彼女になろうかな、と、呟いたのだった。

それから尚登は言葉と違わず私を大事にしてくれていた、と、思う。毎日こまめに連絡をくれ、仕事終わりに私が今日は疲れていないよと言えば自宅から二回も乗り換えなければいけない私の家まで必ず来てくれ、尚登も疲れてるんじゃないのと気にかければ、加南子のとこに来たら疲れがとれるから、と、屈託なく笑った。

友人と出かける予定よりも私と会うことを優先してくれるその温度に申し訳なさを感じていることを伝えれば、俺が加南子と会いたいからしょうがないんだよ、と、余裕ありげに微笑んでいた。

私が何気なく見たいと呟いた映画のチケットを知らぬ間に入手してひらひらと自慢げに見せびらかしてきた日、嬉しくてくすぐったくてたくさん笑ってしまった。
自信はなかったけれど尚登が好きだと言っていた豚角煮を作った日、私のワンルームの部屋の小さなテーブルに置かれた豚角煮を見て、うわあ、と何度も言って、3切れ食べたところで箸を置いてから真面目な顔をして「これ以上はもったいなくて食べれない」と唐突に言ってきた時、可笑しくて、嬉しくて、やっぱりたくさん笑った。
尚登は私の髪を触るたびに、加南子の髪が好きだよと言い、私の顔を触るたびに、加南子の顔が好きだよと言い、私の手に触れるたびに、加南子の手が好きなんだと言って、そのたびに私は身体の奥のほうから小さくて幸福な震えが生まれ、その振動は細かく私の涙腺をつついてきていつも泣いてしまいそうだった。
朝が弱くて不機嫌な寝起きも、一緒に行ったスーパーの帰り道では必ずスーパーで流れていた曲を口ずさんでしまうところも、繋いだ時の大きくて骨ばった手も、笑うとあらわになる八重歯も、尚登と一緒に過ごす全ての時間が、尚登が、どんどん大切なものになっていた。

私の全てをつんざき、木っ端みじんにしたふたつの言葉

好きな人ができた、ごめん。
このふたつの言葉の威力もやはり、凄まじかったのだった。
尚登と付き合いだして一年半が経った頃の蒸し暑いあの日、駅の近くの喫茶店で浴びたこのふたつの言葉は、いつかに浴びたあのふたつの言葉とは装いが違い、私自身の全てをつんざき、それからいとも簡単に木っ端みじんにするような、痛く苦しい威力を伴っていた。

尚登の様子が少しずつ変わっていくのは感じていた。
連絡も会う回数も、少しずつでも確実に減っていた。尚登に少しでも会いたくて、今から会えないかなと提案すれば、乗り換え二回あって疲れちゃうんだ、と言っていた。たまに会っても以前のような尚登の楽しそうな表情を見ることもなくなり、尚登が私の髪を、顔を、手を触ることも、ほとんどなくなっていた。

話がある、と言われた時に、なんとなく覚悟はしていた気がするけれど、それでも好きな人ができたという報告には、なるほどです、かしこまりました、と言えるほど私は逞しくなかった。

どうして好きな人ができるの、と、言いかけて、そんなの仕方ないことだと頭で心を冷やすほかなかった。先に私のことを好きになったのはそっちじゃん、と、言いかけて、そんなの何のルール違反でもないことくらい分かっていた。

私ではない女性を、この人は私にしてくれたように大事にするのだと考えるだけで、全身全霊で吐きそうになった。別れたくないと思っても、一緒にいたいと願っても、目の前の人がもう自分とは離れたいと思っている以上、結論はひとつしかないという分別がつく程度には年を重ねていた。私はしばらく全ての言葉を失っていた。

全てを理解できてしまった。私から彼に放ったふたつの言葉

やなとこあるんだったら言って、直す努力するから。
私も私でまた、妙な威力を持つふたつの言葉で応戦してしまった。この言葉を放った直後の尚登の表情、嫌悪や軽蔑とも似て非なる、気味の悪いものを見るような目つきと、瞬時に歪んだ眉もまた、大きくてしっかりとした釘で私の心に打ち付けられて剥がれることがないままでいる。
尚登のその表情を目にした途端、全てを理解できてしまって心臓のあたりがひと思いに雑巾絞りにされたような苦しさと不快感で、悪気のない涙は止まらなくなってしまった。
この人はもう私を好きにならない。きっと私のわからないところでとっくに私のことを好きではなくなっていた。気づかないふりをしていたけれどやっぱり最後の数ヶ月は延命治療のようなものだった。あらゆる治療の甲斐なく、明日からこの人は私と何の関係もない人になってしまうらしかった。

勝手に私のことを好きになって、勝手に私の気を引いて、会いたい時に会いに来て、私もまんまとすごく好きになったのに、勝手によそに好きな人をつくってしまうとは、とことん勝手な人だった。

女友達に話を聞いてもらおうとも、尚登を過剰に悪く言われることに気が滅入ってしまってだめだった。尚登は勝手だったけれど、私の大切な人だった。ひどい人だと憎むこともできるけれど、素敵な人だったと、あの時間を思い出すことは、それでも幸せだった。

もう傷つきたくないとこわばる私を緩めるふたつの言葉

「それで交際に消極的なんですか?」

糸井さんがスーツの袖から覗くシルバーの腕時計の円盤の位置を直しながら、呆れたようにそう言った。
「消極的っていうか、まだ半年くらいしか経ってないし、今は当分恋愛とかは考えたくないんです」
「それを消極的っていうんです」

付き合うとか付き合わないとかのことを「交際」と呼ぶ目の前の男性が私に好意を抱いていることに気付いてはいたけれど、核心に触れられないように濁し続けていたのも束の間、糸井さんはお酒のせいもあってかやけに詰め寄ってきていた。

「なんで僕とのご飯に来てくれるんですか?」
「それは、別に、楽しいし、友達として」
「僕は友達としては見てませんよ」

こういう押し方は、尚登によく似ているなあとぼんやりと思った。

「正直、もう傷つきたくないんです。糸井さんも今はそう言ってくれても、今後何があるか分かんないじゃないですか。そういうの考えるの、もう嫌なんです」

「僕は澤田さんを傷つけませんけど。信じられないならそれも仕方ないですが」
そう言って糸井さんはコースターの上に置かれてあるグラスを手に取り残りのお酒を一気に飲んだ。
私はこのバーカウンターの横にいるこの人を好きになってしまうことをとても怖がっているのだと、そんなこととっくに気付いていた気がするのに、ようやく言語化できたその感情は頭上からすとんと降ってきたような感覚になった。
「僕はまた澤田さんを誘います。僕のことを好きになってもいいと信じてもらえるまで、ゆっくりいきますからね」

毅然とした態度でストレートにそう言った糸井さんのそのふたつ、ふたつかどうか分からないけれど文節的に多分ふたつのその言葉は、こわばっていた何かを緩める溶解物質が含まれているようで、私は思わず、威力、と呟き、それから糸井さんは、引力?と、難しい顔で聞き直してきたので、あ、引力、なのかも、と、なぜだかそう思った。また誰かを好きになることに怖気付いている。これが引力であればその方がきっとずっと良いのかもしれないと思いながら、糸井さんの過剰に険しげな横顔を見つめていた。

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