●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「美しい女」

贅肉、それは醜くて汚らわしい。
己の意志の脆弱さを可視化するようにして怠惰の象徴として身体に纏わり付き、女性としての価値を無残にも奪い取っていく。肌の皺や弛みも同様に忌々しく、私たちからいとも簡単に美しさを溶かしていくけれど、こと贅肉においては意志の元に管理されているはずであり、この世界では抗うべきものに抗えなくなった者から順番に死んでいくのが常である。そんなことに気がついたのはいつ頃からだったろうか。足を踏み入れたこの世界では女性にとって美貌こそが力であり猛威をふるう。それらを中心にしてあらゆるものはくるくると回っていくのだと、明確な境界線なく、滲むようにして心得ていったのだ。

金や肩書きを振りかざすべく常に飢えているような男性陣と、容姿の美しさの前では畏敬の眼差しで平伏する女性陣。そしてそのどちらもが、金も力も持たない醜さを前には徹底的に軽蔑的であった。「美しくない」という、たったそれだけのことが、私たちにとってたやすく侮蔑の対象となるのだということを肌感覚で痛いほどに理解せざるを得ない、そういう世界が、私の住む世界だった。

すでに手に入れている美しさ以外のその武器を、もし手に入れることができたなら

「私は美しく、強く、成功している」

授賞式の控室に置かれた全身鏡に映る、鮮やかなロイヤルブルーが映えるベアトップのマーメイドドレス身に纏い、華美なジュエリーを耳や首や指に携えた自分の姿を見ながらそう唱えれば、不思議と爪先から伸びるように力が漲ってくる感覚に陥った。
贅肉が一切ないこの白くすべやかで華奢な腕や足は紛れもなく大衆の憧れであり、手のひらに軽々とおさまる小さな顔からすらりと伸びる鼻とアーモンドの形をした吊り目気味のこの大きな目は人々を恍惚とさせてきた。女優として芝居の評価が芳しくなくとも、私は圧倒的な美しさによって常に人々から「女優」として羨望の眼差しや賞賛を受けることを許されてきた。

しかし今夜の授賞式において、他の人間ではなく私が最優秀主演女優賞に選ばれることもできれば、そのトロフィーはこの世界で生きていくための盾となり矛となる。もう既に手にしてあるこの美しさ以外のその明確な武器は、私の女優としてのキャリアを決定的なものにしてくれると考えられ、わずかに想像するだけでもそれは興奮とも緊張とも適合しない、まるで味わったことのない高揚感に全ての神経を支配されてしまいそうだった。

「紗代子さん、緊張されてますか?」

所属する事務所が雇っており時折現場にやってくるヘアメイク担当の背の小さな若い女が私に声をかける。目に映すことも億劫になるほどその女は太りきっており、小さな顎からはふたつもみっつも別の顎が地面に向かって伸び、手首などは発酵が十分だと思えるほど膨らみきっていつ見ても安い菓子パンのようであると感心する。流行的なだけで似合っていない下瞼を赤くする化粧も、痛みきったむらの目立つ黄色の髪の毛先を無視するようにして頭頂部でずさんに団子に結えている髪型も、まとまりのない原色ばかりが散らばった悪趣味な服装も、洗練されていないその姿はまさに醜いものだった。

「ううん、緊張よりも楽しみという気持ちが勝ってるかな。ご心配ありがとう、加藤さんはいつもよく気がつくから助かってるの」

そう言って私がゆっくりと唇の端を上げ、目尻を下げれてやれば、その醜い肉塊は恥ずかしそうに笑みを噛む。若さを軽んじ、女性であることの喜びを放棄している不潔な肉塊が笑みを浮かべたところで、誰を幸せにすることもできなければ対価を払われるわけでもないのだろう。彼女から微かに漂うグッチのギルティのような香り、それもきっと本物ではないであろう安っぽさを纏うそれは、彼女自身の存在を皮肉っているようだった。

「あ、そういえば紗代子さんニュース見ました?奈々美さん、あ、植村波さんがご結婚されるって」

ヘアメイクのために準備された化粧台へ着座すると、女はブラシを持った安い菓子パンをせっせと動かして私の髪の毛先を滑るように触りながら言った。

「ええ、波ちゃんが?そうなの」
「紗代子さんよく共演されてましたよね?」
「うん、かわいらしくて良い子よ。でもまだ若いのに」
「夕方の速報で見たんです、驚きました。それも石井準一さんと」
「石井さん?へえ、そうなの」
「意外ですよね。石井さんってもっと美人なタイプが似合うんじゃないとか思っちゃって」「そう?そんなことないじゃない、波ちゃんも素敵よ」
「ええ、でもなあ。石井さんってメイク界隈にもファン多いから暴動起きちゃいそうなレベルです」

そう言って女はヘアアイロンのコードを自分の首にかけ、私の髪の毛先を少量手に取り熱の伴ったアイロンで整え始めた。
植村波は舞台出身の、幼く地味な顔立ちの役者だった。もちろんテレビドラマで主役を張るような役者ではなく、かといってバイプレイヤーとして脇で個性が存分に出るほど灰汁の強さを持つタイプでもないため、出世していった周囲の脚本家や監督らからその人柄の良さで仕事に呼ばれているような朴訥さが目立つ種類の女だった。彼女と準一が付き合っていたなんて、一体どこの誰が知っていたことなのだろうか。

あれは安心感だったのか、優越感だったのか、今思えばよく分からない

準一とは交際していたのはたったの一年ほどだった。モデル出身のすらりとした高身長にさっぱりとした薄い顔立ちで、物腰が柔らかく誰に対しても優しく接する彼は共演したドラマの現場でも女性陣から人気が高く、そんな彼からあからさまに好意を示されるのは悪い気分ではなかった。年齢はさして違わないけれど役者としてはまだ経験の浅い彼を、現場での番手が高い私が少し気遣うだけで嬉しそうにする姿は可愛く、彼が私にのめり込むことは簡単だった。
交際が始まってからも私が会いたいと言えば次の日がどんなに早くても会いに来て、私の行きたい所にはついてきた。紗代子さんの隣にいられるだけで良いのだと微笑み、私の好みの髪型を維持し、もう少し筋肉をつけてよと言えばなめらかにジムに通い始めた。私が納得いかなかった現場の出来事や共演者の話をいつも困ったように笑って聞いては、そうなんだね、大変だねと静かに呟いていた。
だからだろうか、半年を過ぎた頃から彼に「そういう言い方はあんまりなんじゃない」とたしなめられるように言われることが増えた際には無性に怒りが湧き、どうして分かってくれないのか、何が分かるのかと責め、彼を試すような言動を繰り返しては彼が私の元に戻って丁寧に謝ってくるたびに安心感を覚えていた。否、あれは安心感だったのか、優越感だったのか、今思えばよく分からない。思いのままになってくれていたからこそ、そうではない瞬間の彼が許せなくなっていった。私という人間の価値、私と交際することの価値を、常に彼の言動によって感じさせていて欲しかった。

「ごめん、もう無理だよ」

私の部屋のリビングで立ったままそう言った彼の姿は鮮明な一枚の写真のようにして今もまだそのまま瞼の裏に張り付いている。

「何が無理なの、とりあえず座ったらどうなの」
「いや、ここでいい。ごめん、もう別れたい」
「勝手なこと言わないでくれる、そっちが先に」
「ごめん」
「ごめんじゃなくて。何?どういう意味?好きな人いるの?」
「そういうんじゃない。もう、ごめん、ほんと」
「何?言ってよ。迎えに来るの待ってた私の気持ちになってよ」
「うん。だから、ごめん」
「じゃなくて!ちゃんと言ってよ!じゃないと」
「ごめん。紗代ちゃんのこと本当に好きだったけど、俺にはもう、ごめん、疲れた」

そう言って額を触った彼の手の隙間から見えたのは、私の知らない男性が苦悶する、痛々しい表情だった。

「出てって」

口を突いて出た言葉は恐ろしく冷徹で静かな声色を共にしていた。準一は大きく息を吸い込んでから身体を翻し背を向けてリビングのドアを開けまっすぐに玄関へ向かって行った。

「もう二度と顔見せないで、もう二度と会いたくない」

彼が私の言葉を持ち帰ってくれるように、私の言葉は矛先鋭い刃を向けて彼の背中をめがけて刺しに飛ぶようだったけれど、かすったのかどうかさえ曖昧なまま静かにドアの閉まる音だけがリビングに響いた。

それから準一と連絡がとれることはなかった。仕事で共演することはおろか、二人でよく行っていた店にもぱたりと顔を出さなくなったのだという。従順だった男に背を向けられたことが許せなくて執着しているのだろうということは自分でもある程度理解していたけれど、理屈を整えたところで気持ちがおさまるわけではなかった。私がより美しくあれば、また準一は戻って来ると、否が応でも彼の耳に届くような華々しい活躍を見せていれば、彼がまた私の存在を気にしてくれると、そう思っていた。そうすれば私たちはきっとまた上手くいく、そう信じていた。それなのに現実は、全く美しくもなければ華々しい活躍の片鱗すら持たない、よく分からない平凡な女と結婚するのだという。私より、彼女が、優れているのだと、彼がそう判断したのだ、と、いう。

「こんなに綺麗だったら無敵ですね」。身体中が一瞬で熱を持った

「うわあ、紗代子さん、すごく綺麗」

いつの間にかアップヘアにされ、化粧を施された鏡に映し出される私の姿は自分でも息を飲むほどに美しく、ヘアメイクの女のその言葉を皮切りに周囲にいたスタイリストやマネージャーからもため息のような賞賛の声がふらふらと降り注いできた。

「こんなに綺麗だったら無敵ですね、生まれ変わったら紗代子さんになりたいなあ」

肉がぎっしりと乗った頬骨をぐねぐねと動かしながら菓子パン女がはつらつとそう言った瞬間、太ももの付け根、胃よりももっと奥底の方から虫酸が猛烈な勢いで走り、身体中が一瞬にしてかっと熱を持ったのが分かった。大量の小さな蟻が身体中を張いかぶさってくるような嫌悪感に襲われ、それらに勝手に四肢を支配された。動かされぬように奥歯をぎっと噛み鼻から呼吸をしようとしたけれど、鼻の穴から小粒の蟻を猛烈にを吸い込んでしまったようで反射的に息を止めるしかなかった。みるみるうちに首元のあたりが苦しくなり真っ赤になっていき指は小刻みに震えている。美しくカラットが光る指輪をしているその手が目に映ったけれど、蟻が伝うその宝石は私を安らがせるどころか得体の知れない虚無感と憎悪を与えるのみだった。

「紗代子さん?緊張してます?いつも通り、リラックスリラックス」

私の指先からあらゆるものを伝い蟻は菓子パン女にも張っていくが、いくら群がれどそれが彼女を覆いかぶせてしまうことはなかった。彼女の口の中にもさらさらと流れるようにして侵入していく大量の蟻たちを彼女は気にもとめずに美味しそうに、くちゃくちゃと、不細工な形の唇を湿らせては飲み込んでいた。

「ありがとう、楽しんで来る」

笑みを浮かべながらそう言って鏡を見ると首元や耳元の宝石の輝きに照らされている、この上ないほどに美しい女がいた。そしてその女の三文芝居は、目も当てられないほどにひどいものだった。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。