●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「香水の選び方」

香水が割れた。

もちろん勝手に破裂したわけでもなく、私が手を滑らせて観葉植物の陶器鉢に運悪くぶつけてしまったせいだった。30mlのものとはいえ落として割って飛び散ったおかげで寝室は上品なマグノ リアの香りに支配されてしまい、まあ唐辛子の瓶をぶちまけなくて良かったと強がるように思い直して納得しようとしてみたけれど、眠ろうとするたびに否が応でも記憶が蘇ってくるのだから、いっそ唐辛子の方が良かったのかもしれないと肩を落とした。

ようやく思い出す日も少なくなってきたというのに、時間を置いて久しぶりに浴びるその香りは、記憶や経験を雑に詰め込んだ押入れを豪快に開け、雪崩のようにして私を襲ってくる。ブルガリのスプレンディダは、遥希が好きだと言った香りだった。

それはもう、ほとんど一目惚れのようなものだった

三年ほど前、遥希と最初に出会ったのは、今どき珍しくしっかりと「コンパ」と銘打たれた金曜夜の飲み会だった。銀座の店だと聞いていたのに辿り着いてみればほぼ新橋だったカジュアルなフレンチバルの軒先に到着すると、店内の奥の席から職場の先輩が私を見つけ片手を挙げた。独特の緊張を久しぶりに味わいながら席へと向かえば、スーツ姿の男性が四人いて、いつもより丁寧に髪をセットしている職場の三人の先輩たちが既にそれぞれのドリンクを持っていた。遅れてすいません、と言いながら着席した私の向かいに座り、スーツのジャケットを脱いでシャツの袖をまくってオレンジのドリンクを飲んでいたのが遥希だった。

「小平さんの職場の後輩で、青木瞳といいます」
「あ。黒じゃなくて青なんだね」

そう言って遥希は笑った。それはもう、ほとんど一目惚れのようなものだった。

その日の夜にグループラインが作成され、私は時間を置くことなく遥希に個人ラインを送って、次の金曜日の夜にはもう二人きりでしゃぶしゃぶを食べ、日付を跨いで土曜日になる頃には移動した店でワインを飲んでいた。

やっぱりシャツの袖を捲った先から伸びる遥希の細くもなく太くもない腕にどきどきして、清潔感のある短髪から覗く高い鼻に見とれて、私が話す時にしっかりと私の目を見つめるその目に緊張して、笑う時に手で前髪をくしゃっとする仕草にときめいて、この後どうする、と、余裕ありげに微笑む表情を見た時にはもう、何もかもが手遅れなことくらい分かっていた。

チェックアウトを済ませて外に出れば穏やかな土曜日の午前中の光景が広がっていて、ちょっとあったかくなってきたねと言った私に、コーヒーでも飲んで帰ろっか、と遥希が言うから、私は思わず嬉しさを隠せぬまま、フリッパーズに行きたい、とはしゃいだ。遥希はふふっと笑って、そのまま私の手を握った。その瞬間、歯車が回り出す合図を知らせるような音がカチッと鳴って、私の日常は遥希を中心に回り出してしまった。

あなたが好きだと言うものたちを、私のなかに保存した

それから私は遥希が好きだと言ったバンドの曲ばかりを聴くようになり、遥希が可愛いと漏らした若いモデルたちの画像をいくつも検索しては保存した。遥希から連絡がくればすぐに会いに行き、遥希が「店ここで良い?」と尋ねてくれば全て首を縦に振った。ブラックが飲めない遥希の 為に牛乳を買って行くように努めていたし、時折「あ、牛乳ないのか」と言われればすぐに買いに行き、遥希が好きな料理をいつも振る舞った。

一度私の気に入っているコットン地の白いワンピースを着て行った時「なんかハイジみたい、瞳ってそういうの好きだよね」と遥希が困ったように笑ってから、これまでの服をクローゼットの奥にしまい込み、遥希が可愛いと漏らしていたあのモデルが着ていそうな服、ヘルシーでややセクシーなものをいくつか買ってみれば、遥希は嬉しそうに笑ってくれた。

あなたの為の選択を重ねていくことと相反するように、距離をとられるように

いつからか服やカバンや化粧品を買うにも、常に遥希が好きそうかどうかだけが全ての判断基準になっていき、あまり興味のなかったネイルサロンにもせっせと通うようになった。しかし私が遥希の為の選択を重ねていくことと相反するようにして、次第に遥希とは予定を立てて会うようなことはなくなっていき、金曜の夜の予定を聞いても返信さえこなくなることも増えていった。 それでも突然電話がかかってくれば、それがたとえ水曜の深夜だとしても、私は遥希の家まで飛んで行っていた。

遥希が「ここで良い?」と言う店やホテルが、少しずつ安くて粗末なものになってきている事にも気付いていたけれど、それでもやっぱりいつも首を縦に振ったし、そんなことは平 気だった。遥希が私の髪を触って「ボブが好きなんだけどな」とこぼしたその週末には髪を切り、撮った写真を遥希に送ると、やけにはつらつとしているコアラがグーサインをしているだけの スタンプのみがひとつ、飛んできた。

あなたが褒めてくれた香水は、私の最高のお気に入りになった

「なにこれ、髪?首?めっちゃいい匂い」

出会って二度目の夏の祝日の夜、職場の先輩の結婚式の二次会の途中で遥希から電話がかかってきた私は、場をすり抜けて引き出物を持ったまま遥希の家に到着していた。玄関のドアを開けた 遥希は、ボブにしてしまった髪を無理やりアップヘアにした私の首元にそのまま顔を寄せて鼻を近づけて不思議そうにそう言った。

「え、本当?遥希が好きそうかなって思って。前に遥希が褒めてくれたヘアミストがフローラ、」
「どこの?」
「あ、ブルガリ」
「いいじゃん、俺ハイブランド持ってる子、好きだよ」

そうなんだ、と、こぼした私の腰に戯れるように腕を絡ませ、遥希はふふ、と笑ってドアを閉めた。 それから、遥希が好きそうだからという理由で何となく買ったこの香水は、私の最高のお気に入りになった。遥希が褒めてくれた香水、遥希が好きな香り、遥希が好きな女性。遥希と会う時はもちろんのこと、いつ会いに行っても良いように小さなボトルに詰め替えて持ち歩くことも忘れなかった。つけていくたびに、玄関で、キッチンで、リビングで、ベッドの中で、遥希はしきりに 「瞳の匂いだ、これめっちゃいい」と幸せそうに言ってくれたけれど、私からすれば、これは私の香りではなくて、遥希の香りだった。遥希の為にある、遥希の為だけの、香水だった。

会う回数は目に見えて減ってはいたけれどその香りを身に纏いながら遥希とみっつほどの季節を過ごした頃、遥希からの連絡はとうとうほぼなくなって、電話がかかってくることはおろか、電話をかけても出てくれることはなく、既読がつくことさえなくなっていた。しかし不思議なことに、私は、ああ、そうか、と、どこか冷静に遥希の不在を受け入れることができていた。

遥希が本来は私のような性格やルックスの女性が好きではないことなどとっくに気付いていた し、遥希に合わせて行動する自分がどんどん惨めにな姿になっていることにも、舐められていることにも、嫌というほど気付いていた。それでも好かれたくて、好かれていると思いたくて、そうやって必死になればなるほど遥希が離れていくことだってきちんと実感しながらも、それでもいつか遥希が心から私を愛してくれるのではないかと期待することをやめられなかった。

いつか遥希がいなくなる日というのはくるのだろうと、それだけはぼんやりと、でも確かに予感 できていて、あとのことは、あんな香水は、延命措置をしていたようなものだった。それらを分 かっていたからなのか、それとも大人になって図太くなったからなのか、初恋の時の失恋のように泣き喚くこともなく、女友達に朝まで話を聞いてもらうこともなく、遥希が消えた日常を、ただ淡々と受け入れるようにして諦めたまま、でもまた何かの拍子に電話がかかってくるかもしれないと、ふとした瞬間に遥希のことを思い出しては小さく期待してしまいながら、彼がいなくなった季節をひとつ通り過ぎようとしていた。

あなたがいない今、どうやって自分の香りを選べばいいのだろう

「どんな香りをお探しですか?」

せっかくだからと、まだマグノリアの香りが控えめに残る寝室を後にして日曜の昼に新しい香水を買いに伊勢丹に向かった。コスメフロアを抜けた奥にあるフレグランスフロアには煌びやかで華やかな香水たちが棚に丁寧に陳列されており、それらを眺めながらのろのろと歩いていると、シックな装いの店員に声をかけられた。

「どんな、あ、マグノリアとか」
「ああ、良いですよねえ。結構マグノリアの香りが強いものだとこちらとか」
「あ、いや、やっぱり」
「はい」
「あ、いややっぱりマグノリアじゃなくて、ちょっと、あの」
「はい」
「あ」

そうして、ようやく、気がついてしまった。私は一体どんな香りが好きだったのか、そもそも好きな香りなんてものがちゃんとあったのかどうかさえ、もうよく分からなくなっていた。

遥希のために切ったり染めたりしていた髪型のまま、遥希のために買った服を着て、遥希が褒めてくれたカバンを今日も持っている私には、遥希がいなくなった今、遥希ばかりで埋めていた自分の身体は、風さえ通り抜けそうなほどに空虚なものになっていた。 自分の為の選択ではなく、遥希の為の選択を繰り返す度に、遥希は笑ってくれても、自分自身の 選択や言動への自信は失っていくばかりで、それでも遥希が側にいてくれればそんなことはどうでもよかったのに、遥希が消えてしまったのなら、自分が何の為に誰の為に存在しているのかさえおぼつかなくなっている。

華やかな香水が並ぶ棚の前でようやく実感したその喪失感の正体が、遥希を失ったことなのか、 それとも自分自身の輪郭を失ったことなのかは分からないけれど、この三年間は何だったのか、 私は一体何をしていたのだろうかとようやく自問してみれば、くだらなくて笑えて、それから少しして、じわりと滲むように泣けてきた。

「私」が「私」の何かを変えなくとも愛し続けて欲しかった

 私は「遥希」が好きだったけれど、遥希が側に置いていた「私」は、「遥希を好きな私」でしかなかった。そんなことは分かっていた。でもやっぱり、できることなら、「私」を好きになって欲しかった。「私」が「私」の何かを変えなくとも愛し続けて欲しかった。でもそんなことは叶わないと知っていたから、「私」というものと引き換えに遥希と過ごす時間を選んできたのもま た、「私」だった。

トップノートは甘くフレッシュで絢爛な花が集ったフローラルの香りなのに、ラストノートにはサンダルウッドの効いたムスクが漂うあの香水をつけていた私は、幸せだったのだろうか。きっと幸せだったのに、幸せだったはずなのに、どうして幸せだったのかどうかを問いたくなってしまっているのだろうか。

この目の前にある大量に飾られた華美なボトルの中から、私が心から好きなものをひとつ買おう、それを誰かに良いと言われても、良くないと言われても、私が好きだからとつけ続けられるものを、ひとつ、そして、つけ続けられる人生を、ひとつ、手に入れたいと、店員が困ったように控えめに渡してきたティッシュを受け取れぬまま、棚のライトに照らされて色とりどりに輝く 美しい香水たちを祈るようにして見つめていた。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。