●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「忘れたふり」

「ともこって書いて、さとこ、って読むの。まあ私からしたらさとこって書いてるんだけどさ」

まだ訛りの抜けない尻上がりの口調で、自分の名前のことを僕にそう説明してから、さらさらと 流れるような毛質のショートカット姿の彼女は「まあどっちでも良いんだけど」とくだけたよう に笑った。桜がちらちらと降り落ちる頃に入学したばかりの大学での初めてのゼミの日、ひとつ 飛ばして隣の席に座ったのが智子だった。

智子と親しくなることにさほど時間はかからず、二回目のゼミの際には彼女がくるりが好きだと言うので聴いてみればまんまと好きになり、三回目になるとあの曲が良いだとかこういう曲もあってとかそんなことをゼミが終わっても話し続けていた。何かの拍子に僕が好きだと言った「わにとかげぎす」を彼女も全巻読んだよと言い、でも暗いよ、なんだかよく分かんなかったよ、と、無邪気に笑う彼女に、つられて僕も笑ってしまったりして、ある時サークルの強引な勧誘を断りきれず、弾いたこともないギターマンドリンサークルに入ることになったと絶望しながら智子に告げた時、彼女は心配するでも不憫がるでもなく「壮真くんらしいね」と言ってけたけたと笑いころげて、その姿を見て何か妙な安心感を抱いたことを今でもはっきりと覚えている。

そのうち周囲から、お前ら仲良いな、とか、付き合えば、とかを言われだした時には、二人で声を揃えて「ないない」と笑うようになっていて、二人きりで遊ぶことが増えても、他愛ない話をして笑いあったり、朝まで智子の家でゲームをして寝てしまったり、そんな時間を繰り返していた。

雨の日の出来事なんて、なかったかのようにお互いに振る舞った

一度だけ、二人して飲みすぎてしまった帰り道、八月だというのに雨が降っていたからか少し寒いねという話をして、それからなんとなく、横で歩いていた智子の手を握って、手を繋いだまま駅まで歩いた事はあったけれど、次に会った時にはそんな事などひとつもなかったかのように互いに振る舞って、またいつものように他愛のない時間を過ごしていた。

そのうち僕にも智子にも恋人ができたりあるいは別れたりしながら、時にはそんな話を互いに打ち明けたりしながら、大学四年間はするすると終わっていき、智子は卒業とともに地元の盛岡に帰って地元企業に就職し、僕は東京に残って就職することになった。それから数年経って、久しぶりに大学時代の友人たちと飲んでいる時に、智子が結婚するのだと聞いた。

久しぶりに聞いた 「さとこ」という音が無性に懐かしくなり、帰りの電車で智子に「結婚するんだって、おめでとう」とラインを入れると、すぐに返ってきた返事には「誰?」と書かれていた。

「だって普通は久しぶりに連絡するなら名前とか入れるじゃん」
そう言って智子は笑いながら、ピザカッターをぐるぐると押して数種類のチーズがふんだんにのせられているピザに縦線や横線を調子よく入れていた。

「それにしても誰、はビビるでしょ」
「壮真くんだと思わないじゃん、名前もイニシャルにしてるでしょ、私の方が驚いたよ」 「智子がSNSやってないからさ」
「だって盛岡に映えるようなもん何もないんだよ」

智子はそう言って笑って肩ほどまである黒い髪を慣れた手つきでヘアゴムでひとつにまとめた。
きっともうとっくにショートカットはやめていたのだろうと思うと、会うことがなくなってから今日の日までの智子を、もともと別に得ていた訳でもないのにいつからか失くしてしまったような、少し不思議な感覚になった。

久しぶりに会った彼女は、あの頃のままだった

智子に連絡を入れてから数週間後、来週東京で仕事があるのだと彼女から連絡がきてから今日まで、久しぶりに智子と会う、という些細な緊張はぶくぶくと小さな泡のように生まれ続けていたけれど、いざ会ってみればあの頃と変わらない智子の話しぶりや、やっぱりくだけたような笑い方をしている彼女を見て、すぐに小さくて細かな緊張などはすぐにぱちんぱちんと弾けて消えていってしまった。長さは変わったけれど細くてさらさらと流れるような髪も、黒目がちな小さな目も、押せばどんな形にもなりそうな小さくて柔らかそうな鼻も、顎の下にひとつ付いているほくろも、酔うとすぐに両手で頬を覆う癖も、あの頃のままだった。

卒業後、彼女は地元で事務職の仕事をしていたけれど人間関係がうまくいかなかったこと、それから公務員試験を受けて今は市役所で働いていること、大学時代の友達とはあまり会わなくなったこと、地元に戻った生活を始めると東京での四年間は夢だったのかと思うことがあるということ、そういった他愛のないようで大きなことでもあるような互いの様々な出来事を話していた。

「結婚は、いつ決めたの?」
「うーん、半年くらい前かな、籍は来月入れるんだけど」

クルトンがやけに固いシーザーサラダに、チーズピザとバジルトマトパスタ、それから鯛のカル パッチョを二人で見事にたいらげ、いくつかのオリーブを小さな器に残したままデザートメニュー を手に取りながら智子はそう言った。

「職場の人?」
「部署は違うんだけどね」
「どんな人なの?」
「うーん、優しいよ。穏やかで、全然怒らないし、結構ご飯とかも作ってくれるの」
「へえ、なんかいいね、智子っぽい」
「何それ、壮真くんは?彼女いないの?」
「いないよ、もう二年くらいいない」
「え、なんで」
「うーん、出会いもないし」
「二年前のその人はどんな人だったの?」
「化粧品の販売の人」
「へえ、なんか壮真くんっぽいね」

なんだそれ、と、僕が言っている時にはもう智子は笑っていて、からになったワイングラスを口元に持っていこうとするので、それもう入ってないよと言えばまたけたけたと笑って、じゃあこれもう一杯とオレンジムースにする、と言って、やっぱり笑った。

「覚えてないならいいんだよ」。そういう彼女に何も言えなくなった

「学生時代はこんなところ来たことなかったからさ、なんか新鮮」

店を出て、少し離れた東京駅まで向かう最中、丸ノ内に立ち並ぶ様々なビルやテナントを眺めながら智子は楽しそうにそう言った。

「職場がこの辺なんだよね?」
「うん、金融って大体この辺だから」
「なんかコンパとかめっちゃありそうなのに」
「2、3年目までは結構あったけどなんかもう誘われもしなくなったわ」

ふふっと智子が笑った瞬間、小粒が頬に当たるのを感じ、反射的に上を見上げた。

「あ、これ雨?」
「うそ、私わからない」
「あ、雨降ってるわ、俺今日洗濯したのに。なんか洗濯した時に限って雨って降らない?」
「あの時も雨降ってたよね」

瞬時にぱっと智子を見ると、智子は「覚えてない?」と笑った。
「あ、なんだっけ、なんかあったっけ」
「覚えてないならいいんだよ」
「え、ごめん何」
「ううん、なんでもない」

ゆるい笑みを浮かべながらそう言う彼女に、何も言えなくなってしまった。それから智子は何も言わずにぱらぱらと小雨が降るなか、さっきまでと同じように微笑みながら景色を眺めて変わらぬ歩幅で歩いていくだけだった。どん、どん、と、鈍く鼓動が鳴っていくのを振り払うようにして、髪についた雨を払いながら、ゆっくりと変わっていく丸ノ内の街並みと、少し前を歩く智子の後ろ姿を見つめていた。

「私はね、東京のこと全部覚えてるよ。多分四年間のこと、全部覚えてる」

「壮真くんさ、バイト先の年上の女の人と付き合いだしたじゃん」
しばらくして口火を切ったのは智子で、さっきまで小雨だった粒は少し強く頬を打つようになった気がしていた。
「え?あ、1年生の頃ね」
「私、あの人きらいだったな」
「会ったことあったっけ?」
「なんか飲み会の時に壮真くんのこと迎えにきてたんだよ」
「ああ、なんかあった気がする」
「意外だねってみんな言ってたんだよ、壮真くんがああいう人と付き合うの」
「いや、なんか告白してくれたし、俺も彼女欲しかったから」

その瞬間、ようやく視界に東京駅の全貌がどんと現れ、智子は、目を丸くしてからわあ、と漏らして、東京駅って本当すごいよね、と感心するように言って、横断歩道の信号は赤に変わって足を止めた。

「壮真くんが彼女できたから、私も彼氏つくんなきゃなって思ったなあ」
「え、そんな感じだったの?」
「そうだよ、学部の三村と付き合ってたじゃん私」
「あー、そうだっけ」
「え、なんにも覚えてないの、私はね、東京のこと全部覚えてるよ。多分四年間のこと、全部覚えてる」
智子はそう言って静かに笑った。

覚えていることの方が多かった。だけど「覚えている」とは言えなかった

忘れていることも多いけれど、僕も覚えていることの方が多かった。飲み会だったかは定かではないけれど当時付き合いたての少し年上の彼女を智子が見た時に「壮真くんってああいうタイプが好きだったんだ」と言って意地悪そうに笑ったことも、智子が付き合いだした三村という野球サークルに属しているのにピアスをいつもつけていた男のことも、もちろんあの雨の帰り道も、覚えているのに、覚えていると智子に告げることが、どういうわけができないでいた。それを言ってしまうと、紐を引いてしまうような、その紐を引けば一気に火薬が弾けるような、そしてその火薬は、長年、弾けないようにしていたものだということ も露わになってしまうような、きっと引いてはいけない紐に触れてしまう、そんな気がしていた。

信号が青に変わり、歩みを進めていけばどんどん東京駅は大きくなっていった。数時間前にとっくに弾けたはずの泡のような緊張は、歩くたびにまた少しずつ生まれ始めていた。

「智子、また東京くることある?」
「もうないんじゃないかなあ」
「え、そうなの?でもさ、別に仕事じゃなくても来たらいいじゃん」
「なんで?」
「え、いや、普通に遊びに来たら楽しいじゃん。智子、東京好きでしょ」
「壮真くんはさ、私がなんで今日こんな格好してるかわかる?」

東京駅に吸い込まれるようにして半歩先を歩いていた智子が、僕の横にくるよう歩幅を揃え、両 手を少し開いて見せてからそう尋ねた。それからふと見つめ直した智子の服装は黒いパーカーに 白いデニム地のパンツで、肩には黒い革製の大きめのトートバッグをかけていた。

「パーカー?汚れてもいいから?」
「あはは、確かに、イタリアンこぼしちゃうと辛いもんね」
「正解?」
「壮真くんはいつも正解をくれないよね」
「違うってこと?」
「じゃあなんで今日私が最終の新幹線とってたかわかる?」
「明日も盛岡で仕事だからでしょ?」
「本当に私が仕事で東京に来たと思ってる?」

私たちは、いくじなしだったから「最終」でお別れする

気づけば新幹線の改札がもうすぐそこまで見えていた。さっきから沸々と現われることをやめない緊張の小さな泡が、故障したように一気に次から次へと溢れては押し寄せてくる。もう智子は笑うでもなく、まっすぐに僕を見つめていた。
「いや、そう思ってる、けど、違うの?」
そう尋ねると、智子は少し間を置いてから、ふふ、と笑って、ううん違わない、仕事で来たの、と言った。それから智子は歩みを止めぬままトートバッグから財布を取り出し、新幹線のチケットを手に持った。改札はもうすぐそこのところまで来ていた。

「壮真くん、私たち、あれだね」
「あれ?って、何?」
「多分、私も、壮真くんも、いくじなしだったから」

改札の前で、ようやく智子は立ち止まってそう言ってくしゃりと笑った。 いくじ、と、僕が呟くより先に、智子は、楽しかった、ありがとう、と続けた。

「智子、あのさ」
「うん」
「なんか、あったら、いつでも連絡して、東京きたら俺ずっといるし、普通に遊びに来てもいい んだし、普通にメシとか」
「壮真くん」
「うん」
「もう最終の来ちゃうから行くね、元気でね、またね」

そう言って智子は笑って、さっと後ろを向いて改札の中へと入って行った。それから一度も振り返ることなくホームまで進んで行く彼女が消えるまでその後ろ姿を見つめていた。それはまるで、 怖くて臆病になって触らなかったあの紐ごと火薬ごと消えていってしまうようで、そして、盛岡行きの最終の新幹線があれからあと二本はあったのだろうと気が付いたのは、それからしばらくしてからのことだった。

ヒコロヒー単独ライブ「best bout of hiccorohee」

ヒコロヒーさんイベント

日時:2021年7月10日(土)13:30開場 14:00開演 / 18:30開場 19:00開演
会場:東京・北沢タウンホール
料金:オンライン視聴券2000円(夜公演のみ)
チケット:チケットぴあにて発売中https://w.pia.jp/t/hiccorohee-live
※劇場チケットは完売