●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「天罰」

「いつかハワイ行こうよ」
横に座る大地さんが、カウンターのなかで手際良く魚を捌いていく職人の手つきをぼんやりと眺めながらそう言った。
「なんのために?」
「のんびりできるかなって」
「静岡でも十分できてるよ」
私がそう言うと大地さんはふふっと目を細め、職人が目の前のカウンターテーブルに置いた白身ののった寿司を慣れた手つきで掴み「東京から東伊豆までと、東京からグアムまで、ほとんど移動時間一緒なのに」と笑った。
「じゃあそれグアムでしょう」
「ハワイとグアム違うんだっけ」
「え違うよ、うーん、でも別に一緒なのかも」
「お飲み物どうされますか?」
品のいい白シャツを纏った女性店員が背後から話しかけてきて、私たちはようやくシャンパンのボトルが空になっていることに気がついた。
ああもう空けちゃったんだ、と、大地さんが参ったように笑って、つられて私も笑ってしまった。

「シャンパンもう一本飲む?」
「ううん、私日本酒にしようかな」
「いいね、じゃあ俺も」
そう言って大地さんは焦茶色の皮のカバーで覆われた薄手のメニューを開いて日本酒の名前を眺めはじめる。目の前の透明な小洒落たアイスバケツの中には空になったシャンパンボトルが所在なさげに傾き佇んでおり、その首からは「10th Wedding Anniversary」と書かれたゴールドのチャームがぶら下がっていた。

初めて会った時から、これから起きそうな全てのことを覚悟していた気がする

大地さんと初めて会ったその瞬間から、この人ときっとどうにかなるのだろうという根拠のない予感に大きく支配されていた。
友人宅のガレージに数人で集まり、小さなバーベキューセットを囲んでいた8月の盆休み、大地さんは青いシャツとジーンズを嫌味なく着て軍手をはめた手でバーベキューコンロを熱心に触っていた。少し遠くにいた私と何度か目が合ったあとで、大地さんは唐突に「前髪、やっぱ気になります?切りすぎちゃったんですよ」と自身の黒い短髪をさしながら笑って「朝美さんですよね?今日、旦那さん来れなくなっちゃったらしいですね」と続けた。

「あ、そうなんです、仕事が立て込んでるみたいで」
「会いたかったな、朝美さんのご夫婦の話はいつも奈美から聞いてたから。スポーツマンなんでしょ?」
「いや水泳のコーチやってるだけで」
「大地!お肉買ってきてくんない?」
そう言いながら奈美が缶ビールを片手に近づいてきて、大地さんが「だからもうちょっと買おうって言ったじゃん」と呆れたように笑った時にはもう既に、これから起きそうな全てのことを覚悟していた気がする。

理性がよろめいてしまいかけるたび、それを正しい位置に戻してきた

それからすぐ、大地さんにプロポーズされたことを奈美から聞き、私はおめでとうと言って、二人の結婚式にも出席して新居にもみんなで何度か遊びに行った。
気が強くて自己主張のはっきりとしている奈美をいつも微笑みながら見守っている姿も、私がペットボトルのラベルを剥がしてゴミ箱に捨てている時にいつもありがとうと言ってくれる声も、酔って寝てしまった奈美に毛布をかけながら奈美の友達の中で朝美さんが一番話しやすくて、と、笑った顔も、切長の目元も、大きめの鼻も、日に焼けてごつごつとした手も、全てをどんどん好きになってしまっていることにはとっくに気がついていたけれど、理性がよろめいてしまいそうになる度にぎゅっと目をつぶり頭を降ってそれを正しい位置に戻してきた。会うたびその手に、顔に、髪に触れたくなってしまうことが煩わしくて、そのうち大地さんのいる場に行くのはやめてしまった。

奈美が仕事関係の人たちと何度も浮気していたことは聞いていたけれど、私は決してそれを大地さんに話すことはなかった。奈美が楽しそうに大地さんに嘘をついた話をするたび、大地は私のこと信じきってるからと笑うたび、私が何もしなくたってきっとそのうち天罰はくだる、早く地獄に堕ちればいいと心底思っていた。

自制心や理性は崩れた。最低だと自分を責めても、やめられなかった

ある晩に大地さんから電話がきた時、浮気しているみたいなんだけど何か知ってるかなと言われた時、今から飲みに行きますかと言った時、私がピアスをつけて夜遅くに家から出て行くことにさえ夫が気づかなかった時、ふたりきりでバーカウンターで数杯飲み終えた時、朝美さんみたいな人と結婚すれば良かったのかなと大地さんがこぼした時、もうだめだった。脆く薄い自制心や理性は、雪崩のように音を立てて崩れてしまった。こんなのは最低だ、こんなことしていいはずがないと、自分をいくら責めても、それでも会うことをやめることはできなかった。何を天秤にかけたって、どうしようもなく抗えなかった。

学生時代からの友人の奈美と、五年付き合って結婚した夫、その二人を欺くことは、この人生においてかけがえのない二人と、そしてそれに付随するさまざまなかけがえのないものを失うかもしれないということだった。

十字架を背負うということが罪のあらわれだとするならば、これが十字架だったら幾分らくだったのだろうかとさえ思える。穢らわしい秘密を抱えるというこの贖罪は、なんの手入れもされていない石巌が胸のあたりに忌まわしく張り付いて身体と同化していき、日に日に歪で頑丈な石塊が身体を巣食っていくようだった。そしてそれに苦しむことさえ、許されない気がしていた。

こんなのはどう考えたって下劣で非道で許されることではないと、頭では分かっているのに

「このシャンパン、奈美が好きなやつ?」
「ああ、まあ、記念日だったから。でももともと奈美は東伊豆で記念日なんて嫌だって言ってたから、まあ、他の予定優先されても仕方ないのかもね」
「どこで過ごしたいって言ってたの?」
「どこで、ハワイ」
「そっか、ハワイ、ね」
「朝美ちゃん、ハワイ、行こうか」
「行ってどうするの」

笑いながら自分でそう言った瞬間、行ってどうするの、という言葉の矛先は自分に向かって鋭く飛んできてしまった。行ってどうするのか、この先どうするのか、このままどうするのか、何もわからないまま、友人の結婚記念日に友人の夫と友人のために準備されたシャンパンを飲んでいる、こんなのはどう考えたって下劣で非道で許されることではないと、頭では分かっているのに、どうしてこのまま明日にならなければいいという思いを止めることができないのだろうか、こんなの、一体どうするつもりなのだろう、その瞬間に私のスマホからパンという音が鳴ってふと画面を見れば「加藤さんが昼間に海老名で大地と朝美見たって言ってるんだけど」というメッセージが奈美から入っており、私は一息ついてからスマホを裏返しにした。

「ねえ大地さん」
「うん?」
「ハワイ、今から行こうか」
「今から?」

そう言って笑った大地さんの手元にあるスマホからは軽快に着信音が鳴り出し、その陽気な音はまるでこれから私たちをどこかへ誘うための出囃子のようにも思えた。天罰がくだるよ、早く地獄に堕ちればいいのに、明転飛び出し挨拶終わりで後にできるのは一体どこになるというのだろう、大地さんから目を逸らすようにしてふと視線を投げた店の窓からは、東伊豆の夜空が小さく滲んでいた。

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。